初心者のディベーターを救う団・公式ホームページ

1.4 ディベートの枠組(発展編)

ここで説明することはかなり高度な内容であり、はっきり言って初心者には全く必要ありません。ディベートにある程度習熟した選手が「こんなこともあるのか」程度に読んでくれればよい内容です。また、筆者も詳しく語れるほど理解しているわけではないので、トピックの紹介程度しかできません。そういうことを踏まえて、興味のある方は読んでいただければ幸いです。

ディベートの「パラダイム」とは何か

ディベートには、アカデミックディベートやパーラメンタリーディベートなどの種類があります(詳しくはWhat's Debate?を参照)、その中で、ここで説明しているアカデミックディベートについても、「ディベートのあり方としてどのようなモデルを想定するか」ということが問題となっています(正確に言えば「なっていました」)。

歴史的に、ディベートではどのような議論がなされるのか、ディベートにおける議論の目標(ディベートの目的ではなく、試合で両チームがなすべきことという意味での目標です)などが議論されています。こうした、いわばディベート観のことを、パラダイム(Paradigm)と呼びます。
パラダイムという言葉は、科学哲学者のトーマス・クーン(Thomas S. Kuhn 1922‐1996)が著書The Structure of Scientific Revolutions(「科学革命の構造」:みすず書房)の中で提唱した概念で、主に通常科学(科学者一般に意識されている法則など)を規定する概念として使われています。ディベートにおいてパラダイムという言葉は@ジャッジ及びディベーターの基底的ディベート観Aジャッジにあるディベートの試合を解釈・判定するための規則、指針を与えるディベートの理論体系、という意味で用いられています(蟹池ほか・現代ディベート通論復刻版16頁)。

ここでは、過去に広く知られたパラダイムを少し紹介した上で、現在採用されているパラダイムについて説明します。

定常争点パラダイム

最も古いパラダイムは、定常争点パラダイムと呼ばれるものです。これは、刑事裁判をディベートのモデルとした、遡ればローマ法に起源をもつ考え方です。定常争点パラダイムでは、肯定側が提唱する変化を悪とみなします。つまり、現状(ラテン語でstatus quo)を変えるにはそれなりの理由を要求するわけです。つまり、現状に何らかの害悪があること(罪)、そしてそれが現状に内在する問題であること(内因性)、論題の採用が害悪を解消すること(解決性)、論題の採択が負担を伴わないこと(純利益の優越)の4点を証明して初めて肯定側は勝てるのです。

見たとおり、これは否定側に非常に有利(どれか一つを反証すれば足りる)ですし、変化を悪と見做す考え方は、ローマ時代とは異なり様々な変化が常に生じている現代にはそぐわないものですから、アメリカでも1970年ごろに支持されなくなっています。日本でも現在この立場を取る人はまずいません。

仮説検証パラダイム

また、仮説検証パラダイムというものもあります。議論学者のザレフスキー(Zarefsky)が提唱したもので、ディベートを科学的な活動と捉え、肯定側の任務は仮説である(よって最初は偽と推定される)論題を一般的に証明することであるとされます。肯定側はとにかく論題が真であることの蓋然性を証明すればよいので、途中でプランを変更したり、議論を取り下げたりすることが自由に認められます。また否定側も、この仮説を却下できればよいので、議論を取り下げたり、矛盾する議論を提示したり、いくつもカウンタープラン(肯定側のプランとは異なるプランのこと。このパラダイムでは「仮説」と見做されます)を提示することが可能です。とにかく肯定側の支持する仮説として「論題」を却下できればいいという考え方から、様々な議論のあり方を考える余地が生じます。このため、このパラダイムは支持こそ少なかったものの、ディベート理論に非常に大きな影響を与えています。

しかし、仮説検証パラダイムには、数々の問題点が指摘されています。ここでは細かな内容には踏み込みませんが、主な批判としては、ディベートを科学との類似で捉えることが適切であるのか、といったものや、否定側が自由に議論を出せることから公平性を欠くのではないかというもの、そして矛盾した議論の提出などを許すこと自体が議論の質の低下を招き、教育的効果を十分果たせなくなるのではないかというものがあります。このような理由から、仮説検証パラダイムを採用する人は現在ほとんどいません。

政策形成パラダイム

このように、いろいろなパラダイム(上の2つ以外にもあります)が過去に提唱され、また実際に採用されたりもしたのですが、現在我々が親しんでいるディベートは、主に政策論題を扱い、ある政策の採否を争うというものです。このように、政治的意思決定を模したものとしてディベートを捉える考え方を、政策形成パラダイムと呼びます。これが現在の通説といってよいでしょう。

政策形成パラダイムでは、論題を採るべき政策・価値と考え、それを実現するべきである理由を肯定側が述べ、否定側が実現するべきでない理由を述べる形で議論が展開されます。また、政策形成パラダイムにおいて重要なのは、論題採択というアクション(肯定側からプランとして提示されるものです)によって、既存のシステムがどのように変化するのかを検討するシステム解析です。政策の是非を考えるには、その政策がどのような変化をもたらすかを考えなければなりません。政策決定の場ではそうした議論が当然のようになされますし、またそれが政策決定の本質ともいえます。

パラダイムを考えることの意義

なぜこんなことを考えるんだろうか?という疑問はあって然るべきことです。多分、筆者も十分にその意義を理解しきれていません。そんな状態ですが、私なりに考えた「パラダイムを考える意義」を、政策形成パラダイムを取っている現在のディベートに取り組む上で役立つような形で説明してみようと思います。

あるパラダイムを採用することは、ある模範的なディベートの形を受け入れるということでもあります。ここで、政策形成パラダイムは、「合理的な議会」のようなものを想定したものと考えられます。ですから、議会で模範的とされる議論が、ディベートでも模範的な議論であると考えることができます。議会で許されない議論、すなわち矛盾していたり、議論を急に取り下げたりするような不誠実な議論は許されませんし、また社会的に相当でない差別的な議論なども厳しく見られることになります(そういった不当な言論を理由に敗北の裁定を下すべきだとする議論もあります)。さらには、出てくる議論についても、より政策としてふさわしい価値を求めるという効果があると考えられます。

歴史的なパラダイムの変遷は、時代の変化や公平性・妥当性の追求によって起こっていることも分かります。私たちは今のところ政策形成パラダイムにおけるディベートに取り組んでいるのですが、なぜそのような捉え方がなされているのか、またその枠組の中で私たちにはどのような議論が求められているのか、といったことを考えることは、マニアックな領域の話題ではなく、良い議論をしたいと思っている全てのディベーターに必要とされることなのかもしれません。

2.1 どうやったら勝てるのか

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