初心者のディベーターを救う団・公式ホームページ

What's Debate?

広義の「ディベート」

皆さんは日本の国会で行われている党首討論や、アメリカ大統領選で行われる公開討論を見たことがありますか? 2つの立場に分かれて議論を戦わせる姿は、それなりに迫力があります。実は、こうした討論の形式は全て「ディベート」にあたります。
ディベートにはいろいろな種類があり、上で挙げた政治家の討論のほか、裁判での弁護士と検察官とのやりとりもディベートですし、学会における学者の論争などもディベートに含まれます。これらの場面に共通しているのは、何らかのテーマを争って議論をしていること――要するに、単なる相手のけなしあいではないということ――と、その目的のため公平なルールの下で議論を進めていること、そして最終的には第三者によって何らかの判断が下されるということです。こうしたことを踏まえてディベートを定義すると、以下のようになります。

「ディベートとは、特定のテーマについて立場の違う二者がルールに従って討論し、第三者によって勝敗が判定される議論のことである」

*ちなみに、Oxford ADVAVCED LEARNER’S Dictionary 7th editionには
a formal discussion of an issue at a public meeting or in a parliament. In a debate two or more speakers express opposing views and then there is often a vote on the issue.
という定義があります。

競技ディベートについて

このように、ディベートとは対立する当事者の間で秩序に基づいてなされる議論形式であるということができます。そのような議論形式を採用して、競技として議論を行うのが、当サイトで扱う競技ディベートです。

もっとも、競技ディベートといっても大きく分けて2種類があります。一つは、議論のテーマ(論題)が試合の直前に決まり、即興的な要素の強いパーラメンタリーディベートで、もう一つは、論題が大会前に定められ、綿密な準備の下に論証の有無などを厳密に考えていくアカデミックディベートです。日本語では後者のアカデミックディベートが主であり、当サイトでもこのアカデミックディベートを扱っていきます。
(これ以降、特に断りのない限り、「ディベート」というときはアカデミックディベートを指します)

*上述のような競技ディベートの分類は正確なものではないという指摘もあります。初心者の方が気にする問題ではありませんが、気になる方はこちらの論文を参照してください。

競技として議論を行うため、競技ディベートでは次のような特徴があります。

1)議論のテーマとなる論題は選手が選ぶのでなく、定められたものを用いる
2)議論する立場(テーマに賛成or反対)は無作為に決定され、選手は客観的立場から議論を行う
3)第三者であるジャッジが勝敗を決め、判定を下す

このような「競技ディベート」、特にアカデミックディベートは、その起源が議論教育の方法ということもあり、ゲームでありながらきわめて教育的な要素を持っています。このような競技ディベートの目的や効用について、次項で詳しく説明します。

競技ディベートの目的と効果

アカデミックディベートのそもそもの目的は、議論を行うためのトレーニングです。もちろん、わざわざ競技として取り組む以上、非常にエキサイティングで面白いものではあるのですが(後述します)、それもあくまで教育的要素を高めるための一要素だということができます。つまり、楽しみながら議論をすることで、議論能力を向上させることができるということです。

具体的には、以下のような能力が向上するといわれています。

* 物事をいろいろな視点から捉えることができるようになる
* 筋道立てて論理を考え、組み立てることができるようになる
* 論理のおかしい部分に気付き、客観的な分析ができるようになる
* 物事を判断・決定する能力が身につく
* スピーチに慣れ、分かりやすい発表ができるようになる
* たくさんの情報を調べ、処理する能力が身につく
* 論題について調べることを通じて知識が身につく
* 多人数で一緒に議論を準備することで協調性・リーダーシップが身につく

特に、アカデミックディベートでは、議論の内容を重視することから、論理的思考力・分析力・判断力を養うことが主眼となっています。これらの要素は、民主主義社会の根幹をなす意思決定にとって必要不可欠なものです。実際に、ディベートで扱われる論題の多くは、実社会においてもその是非が議論されるところであり(原発の廃止、臓器移植の解禁、積極的安楽死の法制化etc)、ディベートの試合そのものが意思決定のトレーニングということができます。

ディベートでこのような能力が養われるのだということは、中高生のディベート大会である ディベート甲子園の試合をご覧になれば、実感することができると思います。中高生で大人顔負けの政策論を展開する姿は、ディベートの教育的効果を雄弁に語ってくれます。

また、卑近な例を挙げるとすれば、ディベートで培われる能力は小論文入試などの受験対策や、レポート作りなどの学業・仕事にも役立つこと請け合いです。ディベートの基本的な考え方を身につけることで、物事の分析手法や議論構築のパターンを理解すれば、論理的な文章というのは簡単に書けてしまいますし、批判的な思考能力も身につきます。話題となった漫画「ドラゴン桜」でも論理的思考力の重要性が語られていたりしますが、その文脈でいうなら、受験対策としてディベートをやるというのは有効な手段だということができます。

ディベートの楽しさ

このように、きわめて教育的な競技ディベートですが、ディベートを語る上では、ゲームとしての魅力を外すことはできません。
多くのディベーターが、少なくない時間を割いて、ディベートの試合に向けて準備をしています。それは、教育効果を求めて行うというだけでは説明できません。ディベートには、私たちを魅了してやまない、数々の楽しさがあるのです。

ディベートの良さは、短くまとめると「誰でも簡単に親しめるけれども奥が深い」ということになると思います。簡単に親しめる、なんていうと「本当かな?」なんて思われるかもしれませんが、ディベートは結局のところ、普段使っているように頭を使い、普段話しているようにそれを話すというだけのことです。話題こそ難しくなりがちですが、日常生活の延長線上にある競技なのです。そういう意味では、野球やサッカーなどよりずっと親しみやすいものです。
しかし、与えられた論題に対して説得的な議論を作り、相手の議論に対応しながら効果的に伝えるということは、そう簡単なことではありませんし、議論というものは限りなく向上していくものです。やってみることは簡単ですが、議論の充実には終わりがない。これがディベートの素晴らしいところだと思います。

ディベートの具体的な魅力としては、「物事を考える楽しさ」や「相手の考えを読む楽しさ」を挙げることができます。与えられた論題に対して、それを肯定あるいは否定するためには、無限のアプローチがあります。勝つためにどのような議論を行えばよいのか、どのような議論が真に説得的なのかを考えるときのワクワク感はたまらないものです。さらに、ディベートでは相手も同じように議論を練ってきますから、相手がどんな議論を出してくるのかを予想し、それを上回るように議論を構築する必要があります。そのようにして練り上げた作戦が的中し、自分の考えどおりに試合が進んだときの達成感には、何とも言いがたいものがあります。

*ここで、ディベートの目的が「勝つこと」に全て還元されるわけではないということを急いで付け加えておく必要があります。ディベートが議論の勝敗だけに着目するものであり、実用的な議論能力の涵養には役立たないと主張する方もおられます。しかし、競技の形式的目的と実質的目的は分けて考えるべきです。ディベートは試合の目的として相手の議論を上回る=勝つことを目指しますが、ディベートの本来の目的は、上述の通り競技を通じて議論能力を向上させることにあります。

ディベートには、観戦する楽しみもあります。競技ということでスピーチが速かったり、議論の内容が高度だったりするため、はじめのうちは何がどうなっているのか分からないということはあるかもしれませんが、慣れてしまえば、人の議論を聞きながら「自分ならこう考える」というように楽しめるようになります。よく、野球やサッカーを見ながら批評したがる人がいますが、ディベートでは全ての観客がそうした形で試合を楽しめます(ディベートではそれが正しい見方です)。そして、両チームが議論を練り上げ、それぞれの価値観を戦わせていくような素晴らしい試合では、本当に感動することもできます。頭の回転をフルに生かした議論を聞くということは、皆さんの想像以上に興奮させられるものです。

ディベートに対する誤解とそれへの解答

最近では、ディベートという言葉も一般に認知されるようになってきています。それと同時に、ディベートを体験したことのない方々からのディベートに対する批判なども増えてきています。それらの中には的を射た批判もありますが、その多くは誤解に基づくものであり、何らの実証的研究にも裏付けられていない暴論であるといわざるを得ません。
ここでは、ディベートに対する批判のうち主だったものについて、SDS団の見解を述べさせていただきます。

Q1:ディベートをやることで理屈をふりまわす偏狭な人間になってしまうのではないか?
A:むしろディベートに通じることでそのようなことはなくなります。

ディベートが机上の空論であるとか、相手をやり込めるために議論をするというイメージから、このような批判が生じるのだと思います。しかし、実際のディベートは、確かに競技として仮設された場での議論ではありますが、扱っているテーマ(論題)の多くは社会的に問題となっている事象であり、現実社会に対する良識的な配慮なくしては成立しないものです。また、ディベートは確かに相手の議論を上回ることによって勝つことができる競技ですが、議論の形式としては「相手をやり込める」のではなく「相手の議論も踏まえて、自分たちの議論がより優れていることをジャッジに納得してもらう」のであって、ジャッジとの対話からなる競技です。重箱の隅をつつくような反論で相手を批判するだけではジャッジを説得できませんし、ディベートに慣れてくれば、そのような議論は効率的ではないことが分かってきます。優れたディベーターは、相手の議論のうち必要な部分は認めた上で、自説を建設的に組み立てることで、相手を上回ろうとします。レベルの高い試合では、各チームごとの確立された価値観に裏付けられた議論が展開され、理屈を越えた部分で納得させられることもしばしばです(もっとも、ルール上、ジャッジは合理的な理由のみで判定を下します)。

ディベートに通じるということは、より説得的に主張ができるようになるということです。理屈だけをふりまわすような人間に自分が説得されるか、ということを考えてみれば、ディベートによってそのような人間になってしまうということはないということがお分かりいただけるでしょう。また、ディベートで分析能力を養った選手は、重要な議論とそうではない議論を区別できるようになるので、「批判のための批判」といった非生産的ないいがかりをつけることもなくなります。


Q2:ディベートを悪用して相手を騙したりする人がいるのではないか?
A:その可能性はないとは言えませんが、だからこそディベートの普及が望まれています。

社会的に問題となった某宗教団体の幹部が大学でディベートをやっていたということから、このような主張がなされたことがあります。ディベートは論理的思考力や批判的分析能力などを養うものであり、相手を騙す議論とは対極のものを目指している(「騙す」ということは論理的でない議論を論理的に見せかけるものです)のですが、そういった能力を誤って使うことで、結果的に悪用と評価されるような問題が起きる可能性はゼロとはいえないでしょう。
しかしながら、それは柔道や空手など他の競技にも言えることであり、結局はディベートを学んだものがそれをどう生かすかということに依存する問題です。ディベートに真剣に取り組んでいる選手は、論題についてそれぞれの考えを深め、正しいものの考え方を学んでいます。悪用してやろうという考え方ではディベートに上達することは難しいでしょうし、ディベート経験を積むことで、そういった議論の危うさや、議論をするものとしての心構えも身についてきます。

ディベートという言葉が普及する前から、詐欺や悪徳商法といった、議論の悪用による問題はありました。こういった非論理的な議論にだまされないようにするためにも、ディベートを通じて批判的思考能力を養うことが有用だと考えられます。より広い視点で言えば、ディベートによって民主主義の根幹たる意思決定能力を養うことで、政治家の主義主張を批判的に分析し、一時の主張にだまされずに長期的な視点から政治的決断を下せるようになるといえます。その意味でも、より多くの人がディベートに親しみ、議論を悪用しようとする人々から自分の身を守り、そして日本の未来を守ることが望まれているのです。


Q3:自分の意見と異なる立場にたって議論するディベートは不健全ではないか?
A:何も思想を強制するわけではありませんし、自分と異なる立場に立つことはテーマへの理解を深めてくれます。

ディベートに対する批判として最も多いのは、ディベートが自分の立場と異なることを主張させることにより、自分の意見をもてなくなったり、口先だけの人間をつくってしまうのではないかというようなものです。また、異なる立場の言論を強制することは問題であるといった意見もあるようです。しかし、このような議論は二つの点で誤っています。

一点目に、ディベートでは立場を無作為に定めて議論をさせますが、それはあくまで競技としてそうさせるのであって、特定の思想を擁護するよう強制するわけではない(その試合ではその立場に立ちましょう、と言っているだけ)ということです。ディベートにおいては、与えられたテーマ(日本は死刑制度を廃止すべきであるetc)について賛成と反対のようにして2つの対立する立場を用意し、それぞれのチームが無作為に立場を選んで対戦します。
ここでポイントとなるのは、本人の希望ではなく、大会側が事前に割り振ったり、くじで決定した立場を選択するということです。これは一見すると議論する立場の強制に見えますが、どちらの立場でも議論をしなければならないということは、事前に対立する立場の両方について準備し、そのテーマについてあらゆる観点から検討を加えなければならないということを意味します。ですから、こうした仕組みが特定の立場を強制するよう作られているというのは誤りです。
確かに、試合の時点では自分の意見と異なる主張をしなければならないことも出てきます。しかし、ディベートの試合はあくまで競技として行うものですから、そこでの発言と選手個人の思想は別物として扱われます。ですから、選手は自分の内面とは関係なく、客観的な見地から説得力ある主張を行うように心がければ足りるのです。

二点目に、そもそも物事を考えるに当たって、答えがひとつしかないという場合は例外的です。自説にのみこだわっていては、テーマについて十分な理解に達することはできません。ですから、ディベートにおいては、教育的見地からわざと自分の立場から離れた立場で議論を行うようにしているのです。自分の意見と異なる様々な見解に触れて多面的な分析を行ったり異なる立場から議論を試みたりすることは、結果的に自分の意見を深め、より望ましい結論を導くことにつながります。自分の意見をきちんと持つためにも、異なる立場にたつ必要があるということです。

以上より、自分の意見と切り離して論題を分析し、客観的な説得力を競うというディベートの枠組は、現実社会で求められる問題解決能力を育てるために非常に有効でありこそすれ、批判されるべきものではないということがお分かりいただけたのではないでしょうか。実社会では自分の立場を明らかにすることが求められることもありますが、ディベートによって多面的な思考力が身についていれば、様々なテーマについて自分なりに思考を進めることができ、その内容を説得的に主張できるようになります。こうした能力を身につけるためにも、競技ディベートで「異なる立場の存在」を意識させることが有効だといえるのです。


Q4:ディベートは結論を得るために行われるものではないから建設的な議論能力は身につかないのではないか?
A:ディベートはあくまで訓練としてのツールであり、そこで得られた能力を活用すれば建設的な議論が可能です。

ディベートでは試合中に出された議論を判断材料として、どちらの議論が優れていたかで勝敗を決します。このため、ディベートでは「どちらが優れていたか」は問われますが、その試合で論題に対してどのような結論が得られたかということは考えませんし、そもそもそのようなことは目的としていません。競技として行われるディベートは現実のテーマを扱ってはいるものの、実際の議会での議論とは異なり、議論の結果が現実に何らかの影響を及ぼすものではないからです。
この点を捉えて、ディベートは結論を導こうとしないので、現実の議論には役立たないのではないかという批判があります。これは一面では当たっていて、ディベートの試合で必要とされる要素だけでは、社会において求められる議論能力を全て満たしていないということは言えるでしょう。しかし、我々はディベートを学んだからといって、現実に思考する際もディベートの試合のように考えなければならないということではなく、その場で要求されていることに即して物事を議論し、判断すればよいわけです。その中で、ディベートによって養われる論理的思考力や意思決定能力は、極めて有効です。ディベートは万能ではありませんが、ディベートが議論能力を向上させることは確かですし、論理的思考力や意思決定能力を向上させるツールとしては、ディベートは非常に効率的なものです。

また、ディベートでは結論が全く考慮されないというのは誤りです。そもそも試合においても、それぞれの立場から自分たちの結論を提示しますし、その内容は相手側の議論にも配慮したものである必要があります(そうでなければ説得力はない)。また、試合後には議論を反省する中でどのような結論が実際には望ましいのかという点も議論されたりしますし、試合とは関係なく、自分の中で論題を振り返り、思考を深めるということもあります。ディベートの目的が第三者たるジャッジの説得である以上、論題に対して説得的な結論を出すことも、ディベーターには求められているのです。建設的な議論をするディベーターは、ディベートにおいても優秀なのです。


Q5:ディベートは自分たちの都合のよいことしか議論しないからよくないのではないか?
A:ディベートでは両方の見解を担当しますから、都合のよい・悪いは相対的なものにすぎません。

ディベートでは肯定側なら肯定側にとって都合のよいこと、否定側なら否定側にとって都合のよいことしか言わなくてよいから、現実の議論のように望ましい結論を目指すものではないのではないか、といった批判もあります。これについては、ディベートでは肯定・否定の両方を議論する機会があるので結局は論題に関するすべての立場から考えることを要求されますので、結果的に、試合を離れた部分で望ましい結論を考えるに足るだけの分析を行うことになります。また、試合の中でも、優れた議論を展開するためには、相手側の議論にも配慮した上で議論を進める必要がありますから、都合の悪い材料に目をつぶるということはできません。ディベートでは、対立構造を議論に持ち込んだ上で、第三者であるジャッジに判定を委ねていますから、自分たちに都合のよいことばかりを言っていては勝てないようにできているのです(この点では、一般の議論形式より優れているともいえます)。

これに関係して、ディベートのように勝ち負けだけを重視する議論をしていると、現実の議論でも最善の結論ではなく自分たちの利益だけを追い求めてしまうのではないか、という批判もありますが、これについてはQ2やQ4への解答で触れたとおり、実際の議論でどのように振る舞うかは別問題です。優れたディベーターはディベート的分析手法を生かして、望ましい結論に向けた議論を行うことができます。ただし、現実社会においてディベートを生かすことができるように、ディベーターの側でも、勝ち負けを超えたところにある「望ましさ」を意識した上で議論に臨むという態度を持つことは必要だといえます。


Q6:ディベートが特定の思想を教える道具となってしまう可能性は無いか?
A:そのようにして使用されている例もありますが、ディベートは本質的には価値中立的なものです。

ディベートが歴史教育の文脈と一緒に使われ、ディベートという形で特定の思想を教え込もうとしているように思われる活動があることは否定しません。しかし、ディベートは特定の思想に依拠したものではなく、客観的な説得力という指標のみで議論の優劣を判断するため、本質的に価値中立的な競技だということができます。良識あるディベート団体では、イデオロギー的な意味合いを含む語句を論題から排除する(例えば「日本人は自虐史観を改めるべきだ」といった論題は、自虐史観という言葉自体が価値中立的でないため、望ましくないものと考えられます)などの配慮を行い、特定の価値によって議論がゆがめられないような配慮をしています。誤解を恐れずにいうなら、ディベートという形を取って特定の思想を主張する方々は、ディベーターではありません。
上述のような説明は、ディベートが特定のイデオロギー的議論を認めないということではありません。すでに述べたとおり、ディベートでは客観的に説得力を有する議論であれば評価されますから、その中で特定の思想に依拠した議論などもなされうることになります。しかし、議論に制限を設けない中でその優劣が競われる中で、結果的にそれぞれのディベーターが妥当な答えを見つけていくというのが、ディベートの教育的効果の本質です。その意味でも、ディベートは徹底的に価値中立的であり、またそうあるべきなのです(ジャッジについても、できる限り中立的な立場から判定を下すべき義務があります)。

ですから、我々ディベーターは、どのような形であれ、ディベートが特定の思想を教え込むような形で用いられることがないように配慮する必要があります。昨今では教育の場でディベートが活用されることが増加しており、そのこと自体は望ましいことなのですが、運用においてディベートが知識の刷り込みや思想教育のような形で用いられないように注意する必要があるでしょう。競技ディベートはあくまで議論教育のツールであり、枠組の中で自由に議論することによって各自が自分なりの意見を形成することを尊重するものです。この点について、より一層の理解が進むことを願っています。



ディベートに興味をもたれた方へ

以上の説明からディベートに興味をもたれたという方のために、ディベートと関わる方法について簡単に説明します。

ディベートのルールをもっと詳しく知りたい

当サイトの初心者のためのディベート講座を参照していただければ、アカデミックディベートの基本的ルールについてはほとんど理解できると思います。ディベートについてきちんと学びたい方は、日本ディベート協会(JDA)のOne dayセミナーなどのディベート講座を受講されるとよいでしょう。

一度ディベートを見てみたい

ディベートの大会は無料で観戦可能です。日本語ディベートの代表的な大会としては、JDAが春と秋に開催する大会や、全国教室ディベート連盟(NADE)が主催するディベート甲子園の全国大会及びその予選である地区大会(こちらは中高生の大会)などがあります。
ディベートは生で見ていただくのが一番よいのですが、雰囲気だけでも知りたいという場合は、ディベートの試合を記録した速記録(トランスクリプト)やモデルディベートの原稿などを見ていただけるとよいでしょう。ネット上で手に入るものとしては、以下のようなものがあります。

JDA大会決勝戦のトランスクリプト
オンラインディベートの記録
ドラえもんを題材としたモデルディベート(当サイトのコンテンツです)

ディベートを実際にやってみたい

中高生向けのディベートとしては、ディベート甲子園という大会があります。各地方の予選大会に出場し、勝ち進むと全国大会に出場することができます。参加校はあまり多くないので、運良く自分の学校にチームがある場合を除いては、自分でチームを作って頑張る必要があります。全国教室ディベート連盟のHPから住んでいる地区のHPにアクセスして連絡を取れば、大会のアナウンスや練習会の告知をしてくれるかもしれません(返事が来ない場合は、SDS団の団長が連盟のスタッフだったりするので、連絡を取っていただければ取り次ぎます)。
ディベート甲子園に出場するためには、2名以上のチームを作る必要があります。各学校に1チームしか出場できないので注意してください。部登録は必ずしも必要ないのですが、面倒をみてくれる顧問の先生なども必要ですから、同好会か何かを作って頑張るのがよいと思います。その際には、SDS団という名前を使用していただければもれなくSDS団支部の称号を授与いたしますが、別の団体と間違われたりする可能性がありますので、やめておいたほうが無難です。

大学生の場合は、英語ディベートが比較的盛んだったりするので、英語に苦のない人や、国際人を目指す人は、所属する大学のESSなどに行ってディベートをやっていないか聞いてみると、英語ディベートの世界に参入できます。英語ディベートは大学のディベートコミュニティに比べて規模が大きく、やりがいのある場だと思われます。一方で、母語でない英語を使っていることから、日本語にしてみると理解不能で無意味に思える議論(文法的問題にやたらこだわってみたり、論題を不自然に解釈したりする)が散見されたりするので、その点は覚悟も必要だと思われます。
英語はきついという方などは、数はあまり多くありませんが、日本語ディベートのサークルに入るのがよいでしょう。当サイトのリンク集に大学のディベートサークルのHPを載せておいたので、連絡を取ってみてください(一部インカレもあります)。自分の大学にディベートをやっている場所がない!という場合は、いっそのこと自分でサークルを旗揚げするのも手です。その際には、全日本ディベート連盟(CoDA)に連絡を取っていただければ、支援活動を展開してくれます。
団体とか作るのは面倒だ、とにかくディベートをやりたいんだ!という場合は、大学以降の場合は所属団体に特にこだわりませんので、同志を集めてチームをつくり、各地の大会に乱入するという手もあります(過去にそういう人もいました)。ただし、独学でディベートに習熟するのは難しいところもありますので、近くのサークルなどに連絡して練習試合の機会を作ったり、JDAやCoDAのセミナーを受けてみるのがおすすめです。

社会人だがディベートをやってみたいという場合は、社会人のディベートサークルに入るのが手軽でかつ効率的にディベートを学べる方法だと思います。リンク集に社会人ディベートサークルも載せてありますので、参考にしていただければ幸いです。
また、社会人向けのディベートセミナーや企業研修などもありますので、そちらを受けていただいてもディベートを学ぶことができます。ただ、個人的にはちょっと高すぎるんじゃないかと思われる値段のセミナーがあったりするのは秘密です。

どの場合についても、ディベートの基礎的な技術については、当サイトのコンテンツ内にもある程度用意してありますので、参考にしていただければ幸いです。ディベートをやりたいけどよく分からない、といった悩みのある方は、遠慮なくSDS団まで相談していただければ、可能な限り応対させていただきます。

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目次
ディベートとは何か
競技ディベートについて
競技ディベートの目的と効果
ディベートの楽しさ
ディベートに対する誤解とそれへの解答
ディベートに興味をもたれた方へ


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