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証拠資料の不正な引用

問題の所在

ディベートで用いる証拠資料については、適正な引用方法が守られる必要があります。なぜなら、不正な方法で引用された証拠資料に基づいて議論を行うことは教育的にも望ましくない上、競技としての楽しさを損ねてしまいます。そして何より、議論の材料を適切に使わないということ自体が、議論者としての倫理が疑われる、問題ある行為だということができます。
ここで、不正な引用が許されないというとき、我々はいくつかの課題に直面します。それは、第一に「それでは不正な引用とはどのような行為を指すのか?」ということであり、第二に「不正な引用についてジャッジはどのように判断すべきか」ということです。

以下では、これら2つの問題について検討を加え、不正な証拠資料についてどのように考えるべきか、議論していくことにします。

(1) 違法証拠排除法則とその根拠

競技ディベートの重要な原則として、二つの重要なポイントを挙げることができます。一つ目は、ジャッジが可能な限り予断を廃して議論を評価することです。二つ目は、試合で出される議論は全て中立のものであり、ディベーターの個人的見解に還元されてはならないということです。
以上の原則から導き出されるのは、ディベートが競技者に対して客観的な説得力を有する議論を要求しているということです。これは、競技としての公平性に基づく要求であると同時に、教育的な見地からも正当化されます。すなわち、ディベートでは両チームが公平に評価されなければ試合になりませんし、またそうした環境の中でこそ議論の訓練が効率的に可能となるのです。また、ディベートに期待される教育的効果は、客観的な根拠に基づく論理的思考の養成であるということもいえます。

こうした事情を踏まえると、ディベーターが自らの主張を正当化するためには、みんなが共有できるような一般常識から導かれる論理的帰結のみで議論を行わねばならないということになります。
しかし、政策ディベートで扱う政策論題は、一般の生活とは乖離したテーマです。こうしたテーマを議論する際には、専門的な知識を避けて通ることができません。ですから、一般常識だけで議論を成立させることは難しいし、政策論題を一般常識の範囲だけで議論することに大きな意味があるとも考えられません。政策論題をディベートで扱うには、議論の前提となる一般常識の程度を、少なくともその試合に限って、しかも公平な形で補充する必要があります。
そこで、そのための手段として、客観的に検証可能な証拠資料による情報の補充が許されることになるのです。これが、ディベートにおける証拠資料の意義です。

このような要求を満たすためには、証拠資料は客観的に検証可能なものである必要があり、またその文面についても現実に存在する必要があります。そもそも、証拠資料は、客観的な見地から論題の是非を議論するために必要とされるために要求されるのですから、そのような要求を満たすことのできないような誤った資料を認める必要はないし、それは議論の価値を損なわせてしまうことでもありますから、許されません。

上のような説明は「議論方式」としてのディベートの意義からの説明ですが、競技としてのディベートの性質からも、同様の結論が導かれます。
ディベートという競技は客観的な事実に依拠して行われることが大前提であり、それによって公平性が保証されていますから、そのような世界に仮想の前提が持ち込まれてしまえば、公平な議論は不可能になってしまいます(対戦相手が、架空の大学教授をでっちあげて作った、都合のよい資料を引用してくることを想像してみましょう)。また、現実にない根拠に基づく議論をさせること自体が、教育的にも悪影響を及ぼします。ですから、ディベートにおいて現実に存在しない証拠資料を認めてはならないのです。

ですから、もし誤った前提が試合のなかに持ち込まれたとしたら、そうした前提は判断材料のなかから除外されなければなりません。誤った証拠資料の使用は厳に戒められるべきであり、そうした証拠資料(違法な証拠資料)は議論の評価から除外するべきです。これを「違法証拠排除法則」と呼ぶことにします。

さらに進んで、故意に誤った前提として違法な証拠が持ち込まれた場合には、そのような行為は競技者としての資質をも疑うものであり、倫理的に許されません。それだけでも、少なくとも当該試合において勝利する資格はないと断じてよいでしょう。さらに、誤った証拠資料の使用を抑止するという目的、またジャッジング手続の廉潔性を維持するという目的からも、重大かつ悪質な違法証拠の利用は、当該証拠資料の排除のみならず、使用したチームを敗戦にすべき理由になるというべきです。違法証拠排除法則は、その名の通り違法な証拠を判断基底から排除することだけでなく、違法な証拠の使用が消極的投票理由になりうることをも含んだ概念なのです。

ここで、違法証拠排除というときの「違法」とは、形式的には「ルールに反したもの」という意味ですが、実質的には「証拠資料の本来の意味を何らかの意味で歪曲したもの」という意味をもちます。より正確に表現するなら、証拠資料の引用によって本来の意味との同一性を損ねている場合を指します。
よって、資料の実質的意味を変更するような引用方法や、文面の改竄、また不適切な中略なども、ここでいう違法として処理されることになります。ここで、中略や引用箇所の恣意的選択をも違法に含めるのは、証拠資料はその内容によって評価されるのだということから理解できます。すなわち、資料は文面そのものではなく、そこに含まれた意味が評価対象となっているのであって、その実質的意味を変えることは許されないということです。
また、存在しない証拠資料を捏造するような場合は、捏造した出典がそもそも存在しないという点で同一性を欠き、またジャッジや対戦相手を錯誤に陥らせるものですから、当然に違法となります。

なお、この違法概念は「違法か適法か」という二分法の評価によるものではなく、その程度によって相対化されます。実質的にはほとんど意味を変えていない場合や、資料の意味は汲み取っているというような軽微な問題、あるいは形式上存在するにとどまる小さな瑕疵については、資料改竄などに比べて小さい問題であると考えられます。こうした場合には、実質的には違法性を欠くと評価することも可能です。ある資料が違法かどうかという点についても、一般の議論同様、段階的に評価されるのです。このように、違法証拠排除法則に該当するかどうかは、その違法の程度や様態、試合に与えた影響の大きさなどによって総合的に判断されます。

これに関連して、違法証拠排除法則に該当して排除されるべきかどうかという「違法性」の次元と、引用方法として不適切であるから証明力の低いものとして評価されるという「信憑性」の次元は異なるということにも注意すべきです。違法な引用として反則にならなければなんでもよいというわけではなく、ディベーターは相手を説得するために適切な引用を行わなければならないのだということです。

(2) 違法証拠排除処分の方法―1.捏造・改変資料―

違法証拠として最も悪質なものは、存在しない証拠資料を実在するものと偽って用いる行為です。このような行為のうち、全く新しく証拠資料を作出して用いる行為を捏造と呼び、実在する証拠資料の文面を変更して新しい資料を作出して用いる行為を改変と呼びます。なお、証拠資料の出典は文面に信憑性を付与する点で証拠資料の内容と同一視できるため、出典の変更も改変に当たるというべきです。
ともに、本来存在しないはずの証拠資料を作り出して都合よく引用するということで、極めて悪質な反則行為に当たります。従って、こうした行為が発覚した場合は、原則として反則による敗戦処分を受けるべきです。

捏造や改変の判断については、その違法性が明らかであることから、あまり議論することはありません。
微妙な事例として考えられるとすれば、インターネットサイトのように簡単に証拠資料の形式を装って文章を公開できる手段により、自分たちに都合の良い見解をサイト上に公開し、それを引用する行為が「捏造」に当たりうるかという問題があるかもしれません。しかし、この点については、サイトの管理人名義が正しく明らかにされている限り、その権威性に基づいて判断する(一般の学生による文章であれば、信憑性は著しく低く、実質的に引用しない場合と変わりない)ことで妥当な結論が導けます。
もっとも、インターネットサイトにおいてはその作成名義も容易に偽れるため、自分で作成したものを専門家の手による文章と偽ってサイトに公開するという行為も考えることができます。このような場合は、一応サイト上の出典をそのまま引用したものであるため捏造・改変のいずれにもあたらないと見ることもできますが、その不当さは明らかですから、こうした事実が明らかになった場合は、インターネットサイトを用いて改変行為を隠蔽する行為自体が捏造に当たる(本来存在しない資料を作成した)と考え、違法な証拠資料として扱うべきでしょう。

(3) 違法証拠排除処分の方法―2.不適切な省略―

実際に存在する証拠資料についても、その引用部分を恣意的に選択し、あるいは文面の意図を損なう形で中略引用することによって、実在する証拠資料の意図とは離れた引用を行うことが考えられます。このような引用も、実質的には証拠資料の捏造・改変と同視できる問題がある場合は、違法性を帯びることになります。このように実在する証拠資料を不適切に引用することで実在しない内容を作り出す引用を、不適切な省略と呼ぶことにします。

不適切な省略のうち、明らかに違法性を帯びるのは、恣意的な中略によって原典の文面には存在しない内容を作出する行為です。具体的には、文章の構成や句読点を尊重せずに引用することがこれにあたります。
例えば、「アメリカと日本の関係は悪くなっており、最近では弾道ミサイル防衛システムの導入について日本が難色を示していることが問題となっている。ただ、対立の本質は別の部分にある。それは貿易上の対立であり、日本の北米市場への自動車輸出はアメリカ政府にとって看過できない問題となっている。このままでは日米同盟の存続も危うい。」という資料について、最初と最後の文だけを引用し、貿易の話を中略する行為がこれに当たります。弾道ミサイル防衛システムの話と日米同盟の話は全く関係ない文章であるのに、中略によってそれらが直結しているようにみせかけ、実際は存在しない「弾道ミサイル防衛に反対することで日米同盟が崩壊するかもしれない」という意味を作出しているのです。
別の例を挙げると、「道州制は地方分権を推進するといわれているが、海外で同様の制度をとっている国を見てもそのようなことはいえず、根拠は十分ではない。」という文章から「道州制は地方分権を推進する」という部分だけを引用し、残りを省略する行為があります。句読点以外の部分で引用を切る行為自体が不適切ですが、文章は句点の単位で一かたまりとして評価するにもかかわらず、それを分割して逆の意味に変えてしまう行為は、元の文章に存在しない内容を作り出す悪質な行為といえます。このように、中略がされない場合も、不適切な省略として違法と判断されうるのです。
なお、こうした行為は不適切な省略というより改変にあたると評価することもできます。いずれにせよ、悪質な行為であるということは間違いありません。

そのほか、文面には記載されているものの、著者の意図とは反する部分を選択的に引用する行為が不適切な省略に当たりうる可能性があります。これは、著者の権威性が及ばない部分だけを恣意的に切り出し、その著者を出典として明示することで、本来権威性を与えられるべきでない部分に権威性を付与することが改変に準ずる違法行為に当たるというものです。

この点を考える前提として、「著者の権威性」について考えてみましょう。
基本的には、ジャッジの心証として最も重視されるのは、読まれた資料の文面です。資料の評価では、どのような根拠から何を言っているのかということがポイントとなります。ここでは、著者の権威性の有無が致命的になることはほとんどありません。なぜなら、証拠資料で出典が求められることの意味として最も大きいものは「第三者性」であり、それなりの知識人が客観的な媒体で発表した内容を持ち込むこと自体が、議論の当事者たるディベーターの主張に優位する効果を持つと考えられるからです。これは著者の権威から直接的に導かれるのではなく、公にされた第三者の見解であることが重要な要素となっています。この観点からは、著者の権威性が説得力に致命的な影響を与えることはありません(当然ながらゼロではないです)。また、根拠のない主張については、いかに権威性を持つ著者の言葉であっても、特別の評価をなすことはありません。
しかしながら、著者の権威性が重要な位置づけを占める場合があります。以下のような類型が考えられます。

ア 高度に専門的な内容を証明事項とする資料
(例:原発がメルトダウンを起こすメカニズムについての説明を行う資料)
イ 特定の立場からでしかアクセスできない情報に関わる資料
(例:弾道ミサイル防衛システムの有効性についての非公開実験の結果を述べる資料)
ウ 内容的に中立性が疑われる資料(これは権威性が逆に働く例です)
(例:動物園の管理が優れていることをアピールする動物園園長の談話など)

上記のような極端な例にあたらない場合でも、著者の権威性が説得力にプラスに働くことは一般的にありうることですが、特に上のような場合に著者の権威性が重要だということは今後の議論の前提として重要となってきます。
ちなみに、純粋な事実については著者の権威性は不要です。例えば統計資料の結果については、著者の権威性ではなく、データの母数などが評価基準になります。どんな団体が調査したか、という意味では関係がありますが、後述する「著者の意図」という点では問題になりません。

ここで、不適切な省略を判断する基準である「著者の意図」について考えてみます。著者の意図というのは、以上で論じたような著者の権威性と文章の内容を接続する意味を持ちます。著者の権威性によって説得力を持たせる証拠資料(権威性による証明)の場合、権威ある著者が証拠資料の内容を支持しているということによって証拠資料の内容に権威性が付与され、説得力が与えられます。ですから、著者の意図という要素は、著者の権威性を前提としてはじめて意味を持つということです。ここから、著者の権威性がなくてもよい事項については、著者の意図を考慮する必要は特にないということがいえます。

例えば、『原発は安全だといわれている。もっとも、私自身はそんなことは全く思っていなくて、危険な代物だと信じている。』という天文学者の文章を読まれたとき、ジャッジは「結局どうなんだ、よく分からん」と思うだけで、多分「この資料は判定には何の役にも立たないね」と結論付けるでしょう。文章後段の内容には根拠がないし、さりとて著者に原発と関係する特別な権威性があるわけでもないからです。ここでは著者の意図というものは何の意味も持ちません。むしろ、前段の文が『原発は5重の壁で守られ、制御棒による緊急停止システムや緊急炉心冷却装置など様々な防御システムがあるため安全だといわれている。』であったとすれば(やたら原発に詳しい天文学者ですが…)、むしろ前者の内容を採用することになるでしょう。

もっとも、このように言えるのは、その証拠資料がもっぱら著者の権威性によって主張を証明しようとするものではないという場合だけです。わざわざ例示まで出して「著者の意図はそれほど重要ではない」と言っているのは、著者の意図などどうでもいいと考えるからではなく、証拠資料で最も重要なのはあくまで文面中に含まれる根拠であり、著者の権威性によって証明がなされたと考える場合は実際には多くないのだということを強調するためです。この理解からすれば、著者の意図という要素は、著者の権威性と当該資料の立証事項が強い関連性を有する場合に、著者への信頼という要素を媒介として「かかれざる根拠」として機能するものだということができます。とすれば、著者の意図がこのように「かかれざる根拠」として機能している場合は、著者の意図を改変するような省略などは実質的な根拠の捏造ということになり、許されないことになります。

以上より、著者の意図を曲げ、結果的に不適切な省略(=反則)と評価されるべき引用は、主に権威性によって証明を図ろうとしている場合に著者の真意に反する部分を選択的に引用する行為であるといえます。
この例としては、「原発は地震によって倒壊する。こうした懸念があるが、物理工学の見地から言えば・・・という理由で原発は地震に耐え得る」という工学博士の文章で、後段を省略して前段だけを引用する行為が挙げられます。前段は言い切りの内容であり、何の根拠もなく権威性によって証明を図っていると考えられるのに対し、工学博士としての権威の持ち主はその主張を支持しておらず、このような場合に前段だけを引用する行為は、前段の内容に本来存在しないはずの権威性を付与するものであると言えるからです。なお、権威性によって対象となる主張を証明できるのかは別の話です。

ここで、以上のような見解に対しては、「著者の意図を『かかれざる根拠』として理解するのであれば、どのような資料においても第三者性の観点から著者の権威性を観念することができるのだから、かかれざる根拠として著者の意図が機能しているといえるのであり、結局は著者の意図を尊重しない全ての引用は根拠の捏造として罰せられるべきではないか」という疑問があるかもしれません。
確かに、そのような考え方もありうるでしょう。しかし、資料の説得力を判断する証明力の次元については別として、違法証拠として試合から排除する、あるいは敗戦事由とするレベルの問題であるかどうかという点について考えれば、軽微な問題について反則と考える必要は無いとも考えることができます。既に述べたように、多くの資料において、証明力の本質は文面中の根拠であり、権威性の問題はその背景に存在しうるだけです。著者がウソだと思っていても、客観的な根拠のついた発言はそれ自体で独立の価値を持ちます。ですから、単純に「著者の意図に反するからこの証拠は信用できない」ということはできないのです。
また、著者の意図に反する資料を全て排除するという態度に出ることは、証拠の使用を困難にするとともに、ジャッジにとっても大きな負担となります。全てを違法としてしまうよりは、軽微な問題については証明力の判断に係る事項としてジャッジの自由な判断に任せる方が、結果的に適切な結論を導くことになるということも考えられます。

というわけで念のために付け加えておくと、反則に当たらない場合でも、著者の意図に殊更に反して引用を行う場合は、証明力の低い資料として評価されうることがあります。証拠資料の評価はジャッジの自由心証によりますから、「わざわざ著者の意見に反する部分を出してきた」という事情は、マイナスになりこそすれ、プラスになることはないでしょう。上で問題としているのは、証拠資料を違法として排除すべきというための要件であって、証明力一般の判断はそれぞれのジャッジに完全に委ねられるべきことです。

(4) まとめ

以上、証拠資料の不正な引用について代表的な類型を見ていきました。
証拠資料は、ディベートの試合を支える重要な要素です。これを不正に引用することは、ディベートに対する重大な挑戦であり、厳に戒められなければなりません。そのため、「実際には存在しない内容を作出する」引用は不正な行為であるということをしっかりと意識する必要があります。
また、これを意識するということは、証拠資料の信憑性が及ぶ範囲を理解する上でも重要です。著者の権威性と文面の関連など、証拠資料を判断するための訓練としても、違法証拠資料について考えることには意味があるのです。


2007年4月7日 愚留米

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