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同意の効力

問題の所在

ディベートでは、相手方が争わない事実については同意がなされたものとしてそのまま採用することが原則だと考えられています。これは、「沈黙は同意を意味する」という格言で表現されることもあります。
この延長には、積極的に相手の議論に同意するというスピーチも考えられます。現に、実際の試合では相手の議論を積極的に認めるという発言もなされ、それによって争点を整理することが試みられます。積極的に相手の議論を認め、それによって相手を攻撃するというテクニックも存在します。

しかし、黙示あるいは明示で同意された議論についてどのように扱うべきかという問題は、実際のところ単純ではありません。本稿では、相手の議論に同意するということの意味について、詳しく検討してみることにします。

(1) 「同意」の定義と要件

そもそも、ディベートにおいて「同意」とは何を意味するのでしょうか。
冒頭の説明で挙げたように、ディベートで同意と見なされるのは、相手の議論に反論しなかった(できなかった)場合の「黙示の同意(drop)」と、積極的に相手の議論を認める「明示の同意(grant)」の2類型が存在します。ここで、前者について同意というのは不自然であるとも思われますが、ディベートにおいては後のステージで新しい議論を追加できないという規定がありますから、反論可能なステージで反論を行わなかったということは、その論点には反論しないということを意味しますから、その意味で「その議論に異論はない」という意志が推定されるのです。ここから、ディベートにおける広義の同意を「相手の議論に異論を差し挟まないこと」と定義することができます。

しかし、黙示の同意と明示の同意について、同列に論じることはできません。上述のように、ディベートで黙示の同意を同意として考える理由は、ルール上の主張制限にあります。しかし、ルール上主張制限されていることから反論ができなくなったということは、相手の議論に肯定的評価を与えたということを意味しません。その点で、相手の議論に肯定的評価を認める明示の同意とは異なります。
黙示の同意については、単に反論しなかったというだけであり、その議論について相手方から何の評価もされていないということに留まります。ですから、議論評価の上で積極的な意味を考えるとすれば、黙示の同意を越えて、相手の議論に肯定的評価を認めるという特別の主張が伴う必要があります。そこで、狭義の同意として「相手の議論を肯定的に評価し、その議論を自らの立場からも積極的に主張すること」と定義します(以下、断りのない限り、「同意」という言葉は狭義の同意を意味します)。

この定義から、同意が成立するためには、相手方の主張・理由について積極的に認める旨の発言がなされることが必要です。これは、明示的に相手の議論を援用したり、相手の議論を認めるといった形にとどまらず、相手の主張・理由と同じものを提出したなど、実質的に相手方の議論を肯定したと考えられる場合を含みます1) 2)

(2) 同意のジャッジに対する拘束力

それでは、同意された議論については、どのように判断すべきでしょうか。一つの見解としては「同意された議論については、その試合ではそれが正しいものと考え、それを前提にして判定を行う」というものがありえます。実際に、民事訴訟ではそのような立場が取られています(民訴179条)。
同様に考えると、同意がなされた場合、ジャッジはそれを前提として判断を下さねばならず、同意された議論の内容に矛盾する判定理由は不当であるといわねばならない…ということになります。

しかし、そのようにして、同意された議論を全て「正しいもの」としてしまうことは不当であるというべきです。
なぜなら、ディベートの目的はあくまでも議論の優劣を定めることであり、当事者が試合中の議論についてどう思っているかということではなく、客観的に議論が説得的であるか否かが問題とされるからです。

具体的な問題としては、十分証明がなされていない議論や、明らかに誤っている議論について、同意がなされたというだけでそれを全面的に認めるということは、ディベートの教育的目的に照らして正しい判定を導かないということが挙げられます。
現在のジャッジングの通説は、ジャッジが十分な証明の存在を認めない場合は、反論がなくてもその議論の評価を下げることができると考えます。その処理は「そもそもこの議論は十分な証明がなされていない」と判断される部分に求められるわけですが、同意された議論について証明を不要としてしまうことは、ジャッジが一旦「十分な証明がない」と考えたにもかかわらず、相手側の「同意」という、それ自体根拠のないスピーチによって元の議論に証明がなされたと考えてしまうことになります。これは手続上の問題なので仕方ないと考えることもできますが、論理的に十分でないとされた議論に、同意という手続がなされただけで論理性を補充するということは、ディベートのあり方としてどうなのかという疑問を拭えないところです。

もっとも、同意された議論についてジャッジに対する拘束力を認めることには、それなりの理由もあります。対戦相手が同意した以上、その対戦相手は「相手の主張を認める」という不利益を受け入れると考えているのだから、ジャッジとしてはそのような意思表示を妨げる必要はないし、またそうすべきでないということです。
しかし、相手の主張を認めるという意思を尊重するとしても、その「相手の主張」が当初から持っていた証明力以上のものを認める理由にはならないというべきです。特に、ディベートの目的に反する判定を認める理由とはなりません。再度強調しておくと、ディベートは当事者の利益のために行うのではなく、客観的な説得力を競うために行われるのです。

とすれば、同意された議論のジャッジに対する拘束力としては、その議論について正しいものであると認めなければならないというものではなく、原則として出された当初の証明力のままジャッジが判断するということで考えればよいということになりそうです(例外については本稿5節)。
もっとも、同意がなされたということは両サイドが正しいと主張しているということになりますから、それに反する判断を行ってディベーターを説得するためには、それなりの理由が必要でしょう。その意味で、ディベーターの同意がジャッジに対して事実上の拘束力を持つことは否定できませんし、そのこと自体は問題とされません。

なお、黙示の同意については、明示の同意以上にジャッジへの拘束力が認められないことになります。反論がなかったということは、相手の議論が「提出されたままで」評価されることを認容したに過ぎませんから、反論がなかったことをもってその議論が特別に説得力を有するという理屈は到底成立しません。そうでなければ、明らかにどうでもいい議論についてもいちいち反論しなければならないということになり、不合理というほかありません。

(3) 同意の相手チームに対する拘束力

同意された議論について、それを提示された側はどのように対処できるのでしょうか。
わざわざ相手の議論に同意をする理由は、その議論を認めることで自分たちにとって有利な展開が期待できるからです。そうすると、同意されてしまった側は、その議論を撤回したくなってしまう場合が出てきます。例えば、自分が出したデメリットの発生過程に同意がなされた上でそこからターンアラウンドをつけられてしまった…という場合などが考えられます3)

ここで、そもそも自分が出した議論について撤回が可能なのか、ということが問題となります。
この点について、立論のステージ中であれば、議論の撤回は原則として自由になしうると考えられます。立論では自分たちの理由を構築するパートであり、立論の間であればその理由を自由に再構築できるとするのが妥当でしょう4)
しかし、反駁のステージ以降で、一度出した議論を「なかったことにしてくれ」ということは許されません。理由を提示する立論のパートであればともかく、一度理由として提示されたあとで勝手にそれを取り下げることは無責任ですし、一旦ジャッジに対して議論が提示された以上、その議論をどう判断するかはジャッジに委ねられたことになり、選手の一存でそれを無視しろということはジャッジの自由心証を害するものとして認められないからです。従って、1回しか立論のないディベート甲子園のようなフォーマットでは、そもそも議論の撤回は認められないことになります5)

しかし、議論を勝手に取り下げることは許されないとはいえ、その議論について反対の論拠を挙げ、自分で自分の議論を否定するという方法が考えられます。これを認めるならば、(手間はかかりますが)実質的に自分の議論を撤回できると考えられます。
これについては、否定するに足る理由を提示できれば、自分で自分の議論を攻撃することは許されるというべきです。相手の議論を認めて自分たちの論拠とすることが許されていることからも分かるように、一度出された議論は誰が出したかということから中立に取扱われると考えることができます。とすれば、自分の議論に自分で反論するということも可能だと解することができるでしょう。
一度自分で出した議論には反論できないという見解もありうるところですが、ニューアーギュメントとの関係6)は別として、自分で出した議論に反論してはならないという理由はないと思われます。議論の中で見解を変えることは実際にもありうることですし、当初の主張を上回る根拠を付さなければならないのですから、無責任であるとの反論も当たらないといえます。

ここで、同意された議論について、立論の段階で撤回したり、自分で攻撃を加えることで実質的撤回が可能であるかが問題となります。
まず、立論段階で認められている撤回については、同意がなされた議論については撤回ができなくなるという拘束力を認めるべきです。相手側の期待が生じている以上、それを無視することはできないと考えられるからです。
一方、同意の効果は「その議論を撤回することはできない」というにとどまり、その議論を撤回せずに別の立場から攻撃を加えるということはこの範囲外にあると考えられます。同意した側の期待は「相手がこの理由付けを撤回しない」ということに及んでいるに留まり、「別途の理由付けをもって議論を否定されることがない」ということに及んでいるわけではないからです7)。従って、同意された議論についても、新たに反論を加えて無効化することは可能であるというべきであり、この点に同意の拘束力は及びません。

まとめると、同意が相手側に与える拘束力としては、立論段階(第二立論)において当該議論を撤回することが認められなくなるという効力にとどまり、独立の論拠をもって当該議論を否定することを禁ずるものではないということです。

なお、同意の拘束力は同意した側の期待保護を理由とするものであり、同意した側が認めるのであれば、議論の撤回も認められるというべきです。もっとも、ディベートではステージの関係上同意の有無を確認してから撤回を行うことはできませんから、相手方の承諾を得て議論を撤回するという行為は通常考えられません。

(4) 同意の撤回

今度は、一度同意をなした議論について、同意した側はそれを否定できるかということを考えてみます。同意してみたところ、どうも自分たちに都合が悪そうなので、改めて反論を加えてみるということです。
もっとも、これについては1回立論形式では明らかなレイトレスポンスですから、以下の考察は2回立論形式において第二立論で態度を変更する場合を想定して進めます。

議論を出した側での考察と同様に考えれば、一旦同意をなしたとしても、改めて反論を加えれば議論を否定することができると考えることもできそうです。
しかし、この場合は同意という形で明確に反論を放棄する旨意思表明をしていると見ることができます。そうすると、一旦同意をなした議論については反論が不可能になると考えるのが妥当でしょう。反論しなかった場合には黙示の承認がなされたと考えて反論を認めない(実際には反論の機会を失ったため元の議論のまま残るだけのことですが)以上、一旦明示で承認を与えたという場合に反論を認めるのはおかしいと考え、同意をなした議論に対しては反論できないとするのが理屈として妥当ではないでしょうか8)

ただし、同意してみたところ、相手がその議論を起点として新たに議論を提出した(例えば、同意した議論を起点として新たなメリットを立ててきた)などの事情がある場合、同意をなした側に同意の撤回を認める実益があります。このとき、新しく特別事情が発生したということから同意の撤回を認めうるかが問題となります。

ここで考えるべきことは、どのような要素に対して同意が与えられているのかということです。戦略的な意味合いから(実際には反論可能であるけれども)相手の議論に同意を与えていると考える場合、同意を与えた議論の戦略的価値が変化した場合、同意した動機が損なわれたのですから、意思を変更する理由があるというべきです。一方、相手側の根拠そのものに同意をなしたと考える場合、戦略的意味合いが変化したとしても、議論そのものが変わったわけではありませんから、同意を撤回する理由は認められません。
実際の試合で同意がなされるのは、戦略的動機によるものがほとんどでしょう。しかし、建前としては「相手の議論を認める」というのが同意ですから、根拠そのものに対して同意をしていると考えるべきでしょう。そうだとすれば、議論の内容にかかわらない事情変更があっても、同意を撤回することはできないということになります。一度同意してしまった以上、責任を持てということです。この結論は、同意された側の事情(脚注8参照)からも支持できます9)

(5) 矛盾した議論と同意の関係

最後に、応用問題として、矛盾した議論を提出し、そのうちの一方が相手方に同意されてしまった場合や、そのうちの一方が相手方の議論に同意をなした形になっている場合を考えてみましょう。要するに、同意の存在が矛盾した議論の判断にどう影響するのかということです。
これは実際の試合でもよく見られます。例えば、(1)否定側が「Aになると発生する」デメリット1と「Aにならないと発生する」デメリット2を論じた場合、肯定側が「Aになる」ということに同意する場合(矛盾した議論の一方が相手方に同意されてしまうパターン)や、(2)肯定側がメリットで「Aになるからメリットが生じる」と論じた後、否定側の反論で「Aにならないからメリットは生じない」とされ、それを受けて「Aにはならないからデメリットは発生しない」と再反論してしまう場合(矛盾した議論の一方が相手方の議論に同意をなすパターン)です。

(1)については、肯定側が矛盾した議論の一方を選択して議論していることから、その選択を尊重して、同意に従って判断を下すことが妥当と思われます。もっとも、肯定側の選択した方の議論が明らかに誤っているという場合はジャッジの判断でこれを否定することができる(その意味では限定的な拘束力である)というべきですが、矛盾した議論を出した側を保護する必要性は乏しいこと、矛盾する議論を出された側としては両方の議論に対処することは難しいためどちらかを選択して論じる必要があると考えられることから、同意された側を評価対象として扱うことが求められ、そのことは教育的観点からも正当化できます。
また、このように矛盾した議論を展開した側は、相手側に同意を受けた後にそれを否定する権利はないというべきです。従って、この場合の同意は相手方に対して反論による実質的撤回を行う権利をも許さないという強い拘束力を認めるべきです。

(2)については、相手方の議論を同意することによって自身に有利な効果・不利な効果がともに発生してしまうという点が特徴です。この場合、同意をなした側はそうした有利不利を踏まえて同意を選択したと推定する(実際は深く考えずに認めてしまう場合が多いようですが)のが自然であり、自身の議論に反する内容をも認めていると考えるべきです(そもそも、同意というものは立場に関係なく議論そのものを肯定するのであるから、その効力が片面的ということはありえません)。よって、同意した議論は自分でも撤回できず(同意の効力による)、反論による実質的撤回も許されない(同意の撤回制限による)と解すべきです。

なお、このパターンにおいて同意された側の議論に特別の評価を与えるかどうか((1)の場合を参照)が問題となりますが、これは場合によります。
というのは、(2)の例で言えば、否定側はデメリットの証明において「Aになるからデメリットが発生する」と述べていたという場合、否定側が「Aにならないからメリットは発生しない」と反論している段階で否定側において矛盾した議論が提示されており、その後肯定側が自分のメリットと矛盾した反論をなすことは、あたかも(1)のような必要性に迫られてどちらかを選ぶ場合と同一視できるからです。この場合、両方ともが矛盾した議論を展開しているということで、その評価はジャッジに委ねられ、通常の同意と同様に扱う(ジャッジへの拘束力はない)というべきです。
一方で、否定側がデメリットの説明で「Aになる」ということを主張していなかった場合、肯定側は単に矛盾した議論を展開しただけであり、その段階ではいずれが正しいかは理由付けの優劣によりジャッジが判断することになります。ただし、その後で否定側がいずれかを選択して同意をなす(Aになることを認めてメリットとデメリットの発生をともに認めるか、Aにならないことを認めてメリットとデメリットの発生をともに否定するか)場合は、(1)と同様にしてその同意にジャッジへの限定的拘束力を認めるべきです。

まとめ

以上をまとめると、次のようになります。

・(狭義の)同意とは、相手方の主張・理由について積極的に認める行為であり、スピーチで明示的に主張する場合や、実質的に相手の主張と同様の内容を述べる場合に成立する。
・同意は相手方に対してその議論の撤回を許さないという拘束力が発生する。ただし、相手方は独立の論拠によってその議論を攻撃することにより、実質的な議論の撤回を行うことができる。
・一度なした同意は撤回することができない。すなわち、一度同意した議論には反論できない。
・同意は原則としてジャッジを拘束することがないが、矛盾した議論に対してなされた同意については、明らかに誤った内容でない限りジャッジを拘束する(限定的拘束力)。

以上、ディベートにおける同意の効力について筆者なりの考察を加えてみました。試合においては安易に「この議論は認めますから…」「この議論は認められたので…」という前提で議論がなされますが、判定においてはそのように単純な形で判断を下すことはないのであって、同意するという行為がどこまでの意味を持つのかという点については、改めて考える必要があります。
本稿の記述には――「本稿も」というべきですが――不明瞭な点やより詰めて考えるべき点があり、その点で不十分であるとの批判を免れませんが、これが同意の効力について考えるきっかけのひとつとなれば幸いです。


2007年4月15日 愚留米



脚注

1)なお、民事訴訟においては、相手の主張を認める行為(自白)に特別の効力(それを判決の基礎にしなければならないという裁判所に対する拘束力や相手の同意なくしてそれを撤回できないという同意者に対する拘束力)が付与される一方で、その要件として、単に相手方の主張に一致するだけでなく、その同意が自分にとって不利益であること(不利益要件)が求められるとするのが通説的見解です。その理由としては、相手方の手続保証という観点から、不利益であることを自認した上で行われた自白にのみ拘束力を認めるのが妥当であるということや、裁判所を拘束するためには、不利益であっても当事者が積極的に認めたという事実が必要であるという判断があるのでしょう(このあたりは私見ですが)。
一方で、ディベートにおいては、以下三点の理由から、そのような要件は不要であると考えます。第一に、ディベートでは紛争解決を目的とする民事裁判と異なり、議論の優劣を競うことが試合の目的とされていることから、当事者が軽率に自白をなして反論の機会を失ったとしても自己責任であるといえます。第二に、ディベートで同意(自白)がなされる場合はほとんどの場合積極的な理由があり、不利益要件によって同意を規制する必要性は大きくありません。第三に、本文で後述するように、ディベートにおける同意の効力はジャッジの判断を強度に拘束するものではないため、特別の要件を考える必要はありません。

2)このほか、黙示の同意が与えられ、なおかつスピーチの全趣旨からその論点について争う意思がないと認められる場合には、明示の同意と同様の判断を下すべきでしょう。

3)なお、対象の議論について他に反論がなされず、単独でターンアラウンドだけがつけられた場合、そこには明示の同意があると考えるべきでしょう。それは実質的にその議論を認めるという意志が前提とされているからです。
一方、「〜は発生しない。発生したとして…」という形(仮定的抗弁)で展開されるターンアラウンドについては、明示の同意はなされていないというべきでしょう。そのような場合に同意の拘束力(本文で後述)を認めることは不公平だと考えられるからです。

4)これに対して、一度出した議論を撤回することは無責任であり、立論の場においても許されないという立場もありうるところです。特に、第二立論でのプランの追加を認めない見解を採る論者はそうでしょう(筆者はプランの追加を認めます)。しかし、本文で述べるような同意の拘束力を認めれば、立論における議論の撤回を認めることが不当であるという必要はないでしょう。

5)よく試合で「この部分は忘れてください」といったスピーチがされたりしますが、そんなことを言われても忘れることはできません。

6)自分の意見に自分で反論する場合は、ニューアーギュメントにひっかかる可能性があります。特に、1回立論形式の場合は、第一反駁や第二反駁で自分の議論に攻撃することになるのでしょうが、これは「そもそも立論の時点でそうした反論(この場合「そもそも出さない」ということ)は可能ではないか」という形で、遅すぎる反駁に当たると解する余地があります。ただ、別に認めても実害はなさそうなので、相手から指摘があった場合、それを「反論の必要性」として考えることで、自分の議論に攻撃することを認めてよいでしょう。

7)同意の効力はその議論の正しさを保障するものではなく、理由付けそのものの評価はジャッジに委ねられるのですから、当然です。同意する側が援用できるのは「相手方が出した主張・理由付け」だけであり、それを越えて独立の理由付けが出されることにまで拘束力を及ぼすという議論は、本文2節で論じた同意の理解と矛盾することになります。

8)同意の撤回が当該議論への反論を目的としてなされるということを考えると、同意の撤回がなされるのは、肯定側第二立論で議論が再構築されたことを受け、否定側第二立論において第一立論での撤回(場合によっては否定側第一反駁)を行うという場合だけということになります。この場合、否定側第一立論で反論しなかったことをもって黙示の承認がなされたことにはならない(第二立論で反論を追加できる)ため、本文のような理屈はなりたたないという反論もありうるところです。しかし、本文において黙示の同意と明示の同意を比較して論じたのは、ディベートの考え方として、一旦争わないとした議論については特別の理由がない限り反論を放棄したものと見なす考え方を強調するためのものに過ぎませんから、黙示の承認が与えられるかどうかということによって結論が左右されるわけではありません。
また、否定側第一立論で明示的同意がされた場合、肯定側としては同意に拘束力が生じる以上、それを前提にして第二立論での再構築を行いますから、その同意を撤回することは肯定側の期待を害し、この観点からも同意の撤回は許されないというべきです。

9)この結論には、同意された側に反論による実質的撤回が許されていることに対して均衡を失しているという批判があるかもしれません。確かに、議論を出した側は当然ながら自分の議論に同意しているわけですから、ここでの論理からすれば、自分の議論に反論するということは許されないとも思われます。しかし、相手の議論に同意をなすという行為は相手方に拘束力を持つのであり、そのことから相手方は自分の議論について自由に処分する権利を奪われることになります(そのような場合が生じるのは二回立論形式の場合だけですが)。そうすると、「相手方の議論に」同意するという形式は、自分で議論を出す行為とは異なる規制を受ける理由があるというべきではないでしょうか。

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