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競技ディベートにおける真実義務

問題の所在

およそ議論を行う者として、虚偽の内容を論じることは倫理的に許されない。何となれば、議論の目的は主題に対して望ましい結論を得ることであり、虚偽の内容を論じることはこの目的に反するからである。ディベートにおいても、虚偽の内容に基づいて試合がなされることは、判定を誤らせるという点で競技的に望ましくないし、教育的見地からも認めるべきではない。すなわち、ディベートにおいて虚偽の内容を論じることは許されないといわなければならない。

一方、競技ディベートにおいては競技的・教育的性質から議論者の見解と議論における立場を分離することが原則となっている。この原則と上述の「虚偽の禁止」には、看過できない緊張関係が存する。すなわち、虚偽を「自分の意に反する見解」とするならば、虚偽を許さない競技ディベートというものを考えることはできないし、虚偽の定義を「自分の知る事実に反する事実の提示」としたとしても、競技の便法からは知っている事実にあえて言及しないことや、自分の知るところとは別の見解を援用することが許されなくなるという帰結は、無作為性の原則を採用するディベートにおいて議論の幅を大きく狭めることになる。
本稿では、以上の問題意識を踏まえ、競技ディベートにおいて虚偽の陳述を禁ずる真実義務を考えることができるか、若干の考察を試みる。

(1) ディベートで許されない「虚偽」とは何か

最初に、ディベートにおいて何を持って「虚偽」というべきであるかを考える。この問いは、虚偽の反対語である「真実」の意味を問うことと同値である。従って、ここではディベートにおいて「真実」とは何であるかをどのように考えることが一つの考察方法として有効であると考えられる。

真実というものを考えるとき、そこには大きく2つの考え方があるように思われる。
一つは、真実とは客観的かつ一義的に与えられるものであるという立場がありうるだろう(以下「客観的真実」とする)。これは、真実の語義とも整合的であり、一般的に受けいれられている定義と考えられる。
これに対し、真の答えが何であるかを知ることはできないし、別の主体の思うところを知ることものであるから、当事者において真実と思われることが真実である(以下「主観的真実」とする)という考え方もありうる。
もちろん、この両者は両立しうるし、それぞれ異なる領域において妥当するというのが自然であろう。例えば、科学や哲学においては客観的真実が存在するが、思想の問題については主観的真実しか存在し得ない…ということである。このように考えれば、ディベートにおける真実についても場面によって異なるものを観念できるといえそうである。

ここでディベートにおける真実を考えるとき、論題の是非について客観的真実を要求することは無理があるというべきである。そもそもディベートではどちらが正しいか分からないという前提で論題の是非を争っているのであり、そこに客観的真実を要求することは背理であると言わざるを得ない。というわけで論題の是非についてはせいぜい主観的真実が問題となりうるところであるが、この点については競技ディベートが競技的・教育的目的から主観的真実義務を免除していると解することができよう。本来の議論においては、理由もなく自らの立場を偽ることは不誠実であると考えられるが、ディベートにおいては例外的にそのように考えず議論するということである。従って、論題についての立場に「虚偽」を考える必要は無いということになる。

一方、論題の是非を争う理由については、客観的真実を要求することが可能である。もちろん、理由の中には思想や価値など、客観的真実を要求し得ない要素もありうるが、事実についての主張には客観的真実が存在するのであって、これに反するものは「虚偽」ということができる。事実問題について虚偽を述べることは、論題を肯定ないし否定するために必ずしも必要とされることではない。また、事実問題については主観的真実のように個人の思想・見解によって真実性が左右されることがないため、競技ディベートにおける立場の無作為性を前提としても、事実問題について虚偽を禁ずることが競技者を害することもない。従って、このような虚偽はディベートにおいて禁止することが望まれており、またそうすることの不利益もないというべきである。

(2) ディベートにおける真実義務

一節で論じた虚偽について、競技ディベートでこれを禁じる義務が存することを観念できるか。具体的には、ディベーターに対して真実義務が課せられ、その違反に何らかのペナルティを考えることが可能であるかが問題となる。

この点、証拠資料の捏造が許されないなどのコンセンサスがある以上、真実義務は全く存在しないという論者はいないだろう。問題は、真実義務をどの範囲にまで認めるかということにある。客観的真実を考えることのできる事実問題について、事実と異なることが判明した場合に常に真実義務違反を考えるべきか、それとも意図的に虚偽を述べた場合にのみ真実義務違反を認めるべきか、さらには意図的に虚偽を述べることも真実義務違反を構成しない場合があると考えるか。それぞれその根拠を検討してみる。

事実問題についての虚偽が常に真実義務違反と考える(虚偽を述べないことが真実義務である)という立場は、ディベートを真実発見の場であるとする見解から主張されうる。
しかし、ディベートが真実発見の場であるという点についてはその競技性の点などから疑問があるし、真実発見の場としてディベートを考えたとしても、主観的に虚偽と考えず提出した議論について、検討した結果虚偽であることが判明したことからこれを真実義務違反と考えることは、競技者にとってあまりに酷であろう。よって、このような極端な立場は支持しがたい。

これに対して、意図的に虚偽を述べた場合には全て真実義務違反を認めるべきと考える(意図的に虚偽を述べないことが真実義務である)という立場がありうる。これは、虚偽と知って主張を行うことは、対戦相手・ジャッジを欺罔して勝利を得ようとするものであって望ましくないという考え方である。
これは理由として筋が通っているが、当事者の知識によって真実義務が変化することを認めるため、不公平な結論を導くおそれもある。例えば、論題分野の専門家に対してこのような真実義務を課すことは、主張可能な理由を大幅に制限することとなり、競技性の原則に抵触するといいうる。

そこで、意図的に虚偽を述べることも場合によっては許される(合理的理由なくして虚偽を述べないことが真実義務である)という立場を考えることができる。ここでは、専門的見地からは答えが定まっている事実問題について、それを承知で別の見解を述べるということについては真実義務に反しないという帰結が導かれる。
この立場はディベートの競技性を前提にして妥当な結論を導こうとするものであるが、合理的理由の判断基準は容易ではなく、この点でより深く検討されるべきである。

以上3つの立場については、基本的には最後の説を採るのが妥当である。すなわち、ディベートにおける真実義務とは「合理的理由なくして虚偽を述べないこと」というべきである。これは、ディベートという競技の第一の目的は議論教育であり、そのためには客観的真実と異なる見解が提示されることが有用でありうるということ、ディベートの場では客観的真実は自明のものではなく、あくまでその理由付けによって判断がなされるのであるから、適切な理由が付されればいかなる主張も許容されるべきであるということからも支持できる。
一方で、相手を陥れる欺罔的要素の強い虚偽や、一見明白に虚偽であり教育的にそれを許容する必要性がない場合については、これを否定する必要がある。この説を支持するためには、これを考える基準としての「合理的理由」についてさらに論じなければならない。

(3) 真実義務を免除する「合理的理由」

意図的に虚偽を述べることが許される「合理的理由」として考えることができるのは、以下の場合がある。

第一に、様々な見解が主張されている争点について、客観的真実に反する見解のうち一応の理由付けがなされているものや、客観的真実について通常人が抱きうる疑問を提示することが挙げられる。このような場合、そのように主張することが不自然ではなく、またその争点についての理解を深めることにつながることから、あえて虚偽の見解を主張することに意味があるといえる。また、このような主張を許さない場合、競技ディベートが困難となる場合もあり得る。
第二に、事実を知りながらそれを述べないという消極的虚偽主張を考えることができる。このような消極的態度は、虚偽を述べていることと同視できないし、ディベートにおいては主張内容を取捨選択する自由があるため、不利な事実を述べないということも当然許されるべきである。
第三に、以上のような場合に当たるとしても、その虚偽を述べることに故意・過失がない場合は真実義務違反を構成しないというべきである。実際は事実と反しているとしても、それを知らず、また知らないことに過失がない場合は、それをもって真実義務違反とすることは酷である。また、このような違反を問題としたところで、虚偽が減少することも期待できない。

以上の理由に当たる場合は、虚偽を述べることに合理的理由があると考えることができる。しかし、こうした事情もなく虚偽の事実を述べることは、真実義務に反するものとして考えられなければならない。このような違反類型として、差し当たり以下のような類型を考えることができる。
第一に、反論のために理由が著しく弱いことを認識した上で虚偽の事実を述べることを、真実義務に反する行為として考えることができる。これは、第一の合理的理由のさらなる例外として位置づけられる。具体例としては、引用した資料で言及されている事実が現在の状況とは異なることを明確に認識した上で、あたかもそれが現在も妥当し続けているようにその事実を述べることがこの類型に当たる。ただし、故意・過失がない場合はこれを真実義務違反として非難することができないことは前述の通りである。
第二に、消極的虚偽主張についても、相手の追及を逃れるためにそれをなした後、それと矛盾する形で当該事実について言及する場合、それを真実義務違反と考えることができる。この場合、結果として積極的に「知らない」という虚偽を述べたと評価でき、またそこには故意を認めることができるからである。具体的には、質疑の場である事実について不知を主張した後、後のスピーチについて当該事実についての見解に言及する行為がこれにあたる。

(4) 真実義務に反する行為の処罰方法

このような真実義務違反について、いかなるペナルティを科すことが妥当か。
一つのあり方として、真実義務をいわゆる紳士協定と考え、その違反に特別の罰則を用意しないことも考えられる。しかし、これは合理的理由を欠く虚偽陳述の反倫理性・反教育性や議論への弊害を軽視し、虚偽陳述を横行させることにつながるものである。また、証拠資料の不正に対して罰則を設けている通説的見解とも整合性がない。従って、真実義務違反の主張をなした側に対しては相応の罰則を科す必要があるというべきである。

真実義務違反の議論について最低限認められるべき効果は、当該論点について判断基底から除外し、あるいは虚偽陳述を受けた側に有利に解釈するという判定手続上の効果である。虚偽であることが判明した場合にそれを判定の材料となす必要はない。
また、消極的虚偽主張の後になされた陳述については、それが真実である可能性があるが、これを認めることは真実義務違反を行うことで都合よく事実を提出することを許すことになり、妥当でない。従って、一旦消極的虚偽主張がなされた後、その後で不知を主張した側がその事実について真実の主張をなした場合は、それが真実の主張であったとしてもこれを排斥し、あるいは相手側に有利となるよう解釈するべきである。これは真実と異なる認定を許すことになるという批判もありうるが、ディベートは真実発見のための競技でないため、処罰的意味からあえて真実と異なる認定を行うことも許されるといえる。

さらに、真実義務違反の程度が著しく、かつ悪質である場合は、これを独立の投票理由として考え、虚偽陳述を理由に敗戦を言い渡すことも可能であると考える。
これは、そのような議論がディベートのマナーに反するものであることからも支持できる。証拠資料の捏造や不適切な引用について敗戦の理由となりうると考える立場は一般的であり、真実義務違反もこれらの反則行為と同列に考えて然るべき行為であるといえよう。


2007年4月7日 愚留米

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