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論題肯定的現状の扱いについて

問題の所在

アカデミックディベートでは、特定の政策(または方針)の採択の是非を論題とすることが一般的である。このような論題は「○○(政策主体)は△△(政策)すべきである」という形で与えられる。
このような論題は、現状においてかかる政策が採択されていないことを前提としている。しかし、「現状」というものが流動的である以上、論題策定後に現状が論題に掲げられた政策の採択を決定するという場合は十分に考えられる。ディベートで論題として取り上げられる問題は実社会においても検討に値するものであるということを考えれば、このような状況は珍しいことではない。

現状が実際に論題を肯定する場合、すなわち論題肯定的な現状について、このような事態の中でディベートを行う場合には、様々な問題が想定される。そもそもそのような論題で議論する意味があるのかという根本的な疑問から、肯定側や否定側がどのような立場を支持すると考えればよいのかという問題、内因性と固有性の扱いなどが差し当たり問題として考えられる。
以下では、これらの問題について、従来の通説を検討しつつ簡単な考察を加えることにする。本来であればより詳細な検討が加えられる分野ではあるが、ここでは差し当たり筆者の生成途上の私見を披露するという段階で留まっているということを最初にお断りしておく。

(1) 論題肯定的現状の下で議論する意味

そもそも問題とされるべきは、論題肯定的現状において、そのような論題の下で議論を行うことの意味である。
現実において、既に決定された政策について再度議論するということはまず考えられない。ありうるとしても、それは「その決定が間違っている」という形でなされるのであって、決定された政策を「採用すべきか」という議論はナンセンスでしかない。

このように考えれば、実際に論題の採択が決定されたという場合、そのような論題で試合を行うことには何らの意味がない、ということにもなりそうである。
しかし、上記のようなナンセンスさは実際にそのような政策決定をなした者が再び同様の問題を蒸し返すことから生じているのであり、政策の是非を実際の意思決定から独立に議論しているディベートの試合においては、必ずしも同じく当てはまるものではない。ディベートで論題について議論をするのは、そのような政策を実際に採用するかどうか決定するためではなく、議論教育のためである。従って、そこで政策の望ましさを議論することには、現実の意思決定の帰すうとは独立の価値があるということができる。

もちろん、実際にある政策が実行されている場合にそのような政策の採用の是非を議論することは、ディベートにおいてもナンセンスである(例えば、裁判員制度が施行され運用されている場合に「裁判員制度を採用すべきである」との論題で議論すること)。
しかし、このナンセンスさは「決まったことを議論しているから」ということから生じるものではなく、論題の文言が不適切である(先の例で言えば「裁判員制度を廃止すべきである」が適当である)ということにある。一方、論題の実行が決まった段階ではいまだ「〜すべきである」という文言は不自然ではなく、仮想的に政策の採否を議論することは、少なくとも競技ディベートの世界では正当化されると考えられる。

以下では、このような前提に立ち、論題肯定的現状という言葉を「論題に示された政策が採択された(あるいはその可能性が高い)が、未だ政策は施行されていない」状況と定義して議論する。すなわち、論題に示された政策が施行され、現状に完全に組み込まれてしまった場合は、その論題を用いてディベートを行うことはできないと考える1)
もっとも、このように考えたところで、論題肯定的現状でディベートが成立するということと、論題肯定的現状において肯定側・否定側が適切に攻防を展開できるということは次元を異にする問題である。以下では、論題肯定的現状において発生する問題点について検討を進める。

(2) 論題肯定的現状において肯定側・否定側の取りうる立場

通常の試合において、肯定側は論題に規定された政策の採択された世界が望ましいという立場に立ち、否定側は論題の採択されない世界――通常は現状維持――を支持することが一般的である。ここでは、現状では論題が肯定されていないということが暗黙の前提となっている。
これに対し、現状が論題を支持しているという論題肯定的現状において、肯定側と否定側はどのような立場を支持するのであろうか。

肯定側については、立場の決定という点で特に問題が生じるということはない。論題の採択された世界が望ましいという立場自体は、それが現実の世界であろうが仮想の世界であろうが成立するからである2)

問題は、否定側の取るべき立場にある。否定側がcounterplanを提出しない場合、否定側は現状維持の立場を支持するものと擬制されるというのが一般的理解であるが、これは現状が論題を肯定していないということを前提としている。
counterplanの提出が許されている場合、否定側は論題を否定するような政策を提出し、論題肯定的現状から乖離した立場を取って論題を否定することができる。しかし、そのようなルール下においても、否定側の配慮不足あるいは肯定側の不意の反駁(肯定側から現状が論題肯定的であることを論証される)により現状の論題肯定的傾向を否定するcounterplanを提出しなかったという場合には、否定側は論題肯定的現状を維持するという立場が擬制される可能性がある。また、counterplanの提出が許されないルールでは、否定側は常に論題肯定的現状を支持しなければならないということにもなりそうである。そのような場合、否定側はそもそも論題を否定していないため、決して勝つことはできない…という帰結もありうるところである3)

このような帰結はもちろん妥当でない。では、どのように考えるべきか。
ありうる議論としては、否定側は論題を否定することを目的としているから、それが支持する立場は当然に論題を含まないものである、というものがある。否定側が現状維持を支持するとき、その現状は論題を肯定しないものであり、たとえ実際の「現状」が論題肯定的であっても、否定側のいう現状は論題を否定するものであると仮定する、ということである。
このような現実に反した仮定は不当であるとの反論もありうるが、肯定側にフィアットによる仮定を認める以上、否定側に現実に反した仮定を認めることが許されないとは思われない。論題肯定的現状に対して論題の否定を仮定することが現実と明確に矛盾しているという点でフィアットとは異なると考えることができるかもしれないが、フィアットによっても、現実には決して実行されそうにない政策が仮定される場合もあるし、議論のために仮定を設けるという点では肯定側に与えられるフィアットと何ら違いないのであるから、論題肯定的現状において論題否定的現状を仮定するということは許されて然るべきであろう4)

以上から、論題肯定的現状において、否定側は論題否定的現状を仮定した上でこれを支持することが可能であるということができる。これは否定側にCounterplanの提出が許されず現状維持を強制されるディベート甲子園のような大会においては特に支持されるべき議論といえる。

 

(3) いわゆる擬似内因性と論題肯定的現状における固有性について

肯定側と否定側が論題肯定的現状において然るべき立場を取りうるとしても、論題との関係で、これを肯定するためのメリット・デメリットをどのように提出するかという点では問題が残されている。
そのような問題のうち最たるものが、いわゆる「擬似内因性」の問題である。「擬似内因性」とは、次のように定義される反論である。

「擬似内因性というのは…決論命題の主体(例えば、政府)が命題的なことをするであろう(Will)、或いはできる(Can)から決論命題を採択する理由がない(内因性がない)というものである。」(伊豆田=蟹池=北野=並木『現代ディベート通論[復刻版]』[蟹池](ディベート・フォーラム出版会、2005)33頁。ただし「本在性」の語は「内因性」と改めている)

これは、具体的には「現状でも論題は採択されるため、肯定側のメリットは現状でも発生するものであり、論題を採択する理由にならない」というものである。このように表現すると、擬似内因性の議論の不自然性は明らかであろう。
このような擬似内因性の議論は、論題が「〜すべきである(Should)」の形で規定されていることとの関係で、論題を否定するものではないと考えられている。これは、実際にその論題が採択されるかどうかと、その論題を採択すべきかどうかは別の問題であり、前者は後者を否定する理由にはならないという理屈である。内因性の定義は、現状に論題を採用しないと解決されない問題があるということであり、現状が論題を採用しているということはこれを否定する理由にはならないと思われる。擬似内因性の議論が内因性を否定することがないということは現代ディベート通論によって強調され、現在のディベート界でも有力な立場を占めている。

これに対して、瀬能和彦先生は通論のいう擬似内因性概念について次のような疑問を提起している5)。論題でいう「すべき(Should)」という言葉は、何らかの状況と比較して望ましいという意味であり、その状態自体を独立で評価できるものではない。すなわち、論題に規定された政策を実行すべきというとき、それはその政策が現実には実行されていないこととの対比で言われることであり、政策を実行すべきかどうかの評価は、政策が実行されていない状況との比較でしかありえない。とすれば、論題に規定された政策の望ましさと、それが実際に採用されているかどうかを別のものとして理解することは誤りである。
この立場からは、論題肯定的現状における肯定側のメリット(論題支持の理由)を評価する場合には、論題否定的現状を仮定した上で、それと比較する必要があることになる。瀬能先生は、このような仮定を設けることを不当とする。その理由としては、現状が論題否定的である通常の場合には現状とプラン実行後(論題の支持された状況)を比較しているにもかかわらず、現状が論題肯定的になった場合には論題否定的現状という仮想を持ち出してそれと比較するというのは一貫性にかけるし、論題否定的現状を仮定するという場合、そこで仮想する状況の起点は理論上自由に定めうることになり、肯定側は「100年前の論題が採択されていなかった状況」と比較することで論題の採択を正当化することが可能になるという不当な結論が導かれうることになるということが挙げられるという。
この帰結としては、擬似内因性とされてきた反論は有効であり、肯定側は常に「現状」との間で論題の望ましさ(メリット)を証明する必要があるから、現状において既に採用されている政策から生じるメリットはメリットといえないことになる6)。つまり、論題否定的現状を仮想することが許されない以上、現状と論題支持の立場に乖離がなく、比較することができないため、「すべき」という文言を肯定できないことになるという。

この指摘については、確かに前段でいう「『すべき』という言葉は、何らかの状況と比較して望ましいという意味である」という点についてその通りであり、通説に対して強力な批判となっているように思われる。しかし、そこから擬似内因性の議論を否定する理由付けについては、必ずしも説得的でない部分もある。
第一に、論題肯定的現状の場合にのみ論題否定的現状を仮定するということが一貫していないという議論について、それだけでは擬似内因性を否定する理由にはならないのではないか。肯定側があくまで「論題に規定された政策の採択が望ましいことを主張する」立場にある以上、「すべき」という言葉が比較による評価を前提とするという理解を前提にしても、その評価のために然るべき状況を比較対象として仮定することは当然のことである。また、そのような想定をおくことは、否定側において論題否定的現状を仮定することが許されるという前述の議論からすれば、肯定側についても同様に認められることである(なお、否定側についても、通常の場合は現状そのものを肯定し、論題肯定的現状の場合にのみ論題否定的現状を仮定するという点で一貫していないことは同じである)。
第二に、肯定側に論題否定的現状の仮定を許すと都合のよい時点との比較が可能になるという議論について、そのような比較で論題に規定された「望ましさ」が肯定できるかは別の問題である。肯定側が比較の起点として任意の時点を持ち出すことはもとより自由であるが、そこから導き出された議論から論題の「〜すべきである」が肯定されたとジャッジが判断するかどうかは、独立の問題である。常識的なジャッジは、判断時点である現在の社会状況を判断規定として議論を評価するのであって、論題肯定的現状への対処という必要性を超えた不自然な仮定に基づく議論は、判定の時点で排除されるはずである。論題肯定的現状において「論題に規定された政策を採択すべきである」という命題を判断するために参照される仮想世界は、現状から「論題に規定された政策の採択」という要素を取り除いた上で常識的に想定できる世界であって、そのような世界を想定することはそれほど難しいことではない(少なくとも、通常のディベートにおいて解決性などを評価することと質的に異なるとはいえない)。

もっとも、瀬能先生が擬似内因性を否定される実質的理由としては、擬似内因性の概念を採用することが、論題肯定的現状によってデメリットの固有性が否定されるということとの均衡を失しているということにあると考えられる。
論題に規定された政策の採択によって問題が発生するというデメリットについて、その政策が現状でも採択されるということになれば、デメリットは固有性を欠くというのが通常の理解である。ここからすれば、論題肯定的現状において、肯定側が論題に規定された政策から発生するメリットを主張できるのに対し、否定側はそのような政策から生じるデメリットを主張できないことになり、不公平極まりないこととなる。もちろん、前述のように否定側が論題否定的現状を仮定してよいと考えれば、論題が採択されていない現状との対比でデメリットを主張できるが、いくつかの政策が同時に規定された論題7)について、そのうちの一つが採択されることが決定されたという場合、否定側は論題否定のためにはそのうち一個の政策を否定すれば足りると考えられるから、論題否定的現状を仮定する必要がないことになる。従って、採択が決定された政策につき、肯定側はメリットを出せるが否定側はデメリットを出せないということになってしまう。

しかし、この不均衡は、擬似内因性を否定することではなく、論題肯定的現状によって固有性を否定できるという議論を問題とすることによって解決すべきではないか。
ディベートでは、採択された政策についても、政策の是非について仮想的に議論することの意味があるというのは(1)で述べたとおりである。そのために、論題肯定的現状においても否定側は論題否定的現状を仮定することが許されている。そう考えれば、「現状」と論題に規定された政策の採択後を比較するという枠組に拘泥するのではなく、「論題に規定された政策のない世界」と「論題に規定された政策のある世界」で争うという枠組を前提とし、デメリットの評価にもこれを及ぼすことが正しいことになる。すなわち、固有性の有無は、そのデメリットが論題に規定された政策があっても生じるのかどうかで判断するのであって、実際にその政策が行われるかどうかで判断するものではないということである。「その政策は現状でも採用されるからそのデメリットは論題を否定する理由にならない」という議論が、論題の「すべき」を考える上で不当であるというのは、擬似内因性において指摘されてきたことと同様である。そうであれば、論題肯定的現状によって固有性を否定しようとする議論も、「擬似固有性」として否定されるというべきである。

このように、内因性と固有性について、論題に規定された政策のある世界とその政策がない世界との比較で評価するという同一の規律を及ぼすことは、政策形成パラダイムの想定する意思決定過程からも支持されるところである。ある政策の採否を論題として議論する場合、主張されている利益・不利益がその政策による影響であるかどうかが問題となるのであり、実際にそのような政策が導入されるということは、議論を中止する理由にはなりうる8)としても、利益や不利益を減殺する理由にはならない。
また、そのような判断においては、文字通りの現状だけではなく、政策の影響を判断するために特定の状況を仮想することは必要不可欠である。そのような仮想を行った上で、現状とは独立した「政策の望ましさ」を評価することは可能であり、そのことを否定する理由はないだろう。

 

(4) 結語

これで、はなはだ不十分ではあるが、論題肯定的現状における議論の規律についての一応の検討を終える。
筆者の結論としては、論題肯定的現状によっても肯定側は論題に規定された政策の採択されていない状況を前提としてそこからの乖離としての政策採択を主張し、否定側はそのような政策の採用されない状況を支持するという構図は維持されるということになる。この解釈によれば現実の試合での不都合は特に生じないと考えているが、筆者の検討していない問題点が他にあることや、そもそも理論的に十分正当化できているかという点については、十分自信を持てないというのが正直なところである。
現実の論題で論題肯定的現状が現出することは決して稀ではないことを考えると、この問題についてはなお詰めて考えるべき点が多い。しかし、今の筆者の知見によって及ぶところは以上のところであり、さらなる検討については他日を期すこととしたい。


2007年7月13日 愚留米

 

脚注

1)上記の通り、これは論題の文言が不適切であることに起因する。現実にこのような事態が発生した場合、論題を読み替えて対処するということが考えられるが、その場合は肯定側と否定側の支持すべき立場が入れ替わる可能性がある。本文の例で言えば、裁判員制度の施行下で「裁判員制度を導入すべきである」という論題を読み替える場合、「裁判員制度を廃止すべきである」ということになるが、その場合は肯定側が裁判員制度に否定的な議論を行うということになる(「裁判員制度を維持すべきである」という読み替えもありうるが、このような論題が妥当であるかは別途検討を要する)。
もっとも、現実的には大会主催者が適切な修正を加えることで解決されうると思われる。これは本文で検討する「論題肯定的現状」についても同様に妥当しうる対処法である。

2)後で触れる通り、「論題に規定された政策の採択された世界が望ましい」という主張をすることに意味があるかどうかは、別の問題である。

3)もっとも、筆者は肯定側・否定側がいずれの立場を支持するかということは、その立場を取ることで提出しうる議論が制約されることは別として、試合の勝敗を直接決定づけるものではないと考えている。すなわち、理論的には、肯定側は論題を肯定する立場に立たなくても(Topicalなプランを出さなくても)試合に勝利しうるし、それは否定側が論題肯定的現状を支持することになった場合でも同様であると考える。このような立場からは、論題肯定的現状によって生じる問題はメリットやデメリットの評価(内因性、固有性に関する部分)であると考えることになる。
もっとも、肯定側に論題を肯定する規範的義務を認める通説的見解からすれば、否定側にも同様の義務を認めるということになるであろうから(否定側は論題を否定しさえすればよいという立場もありうるが)、本文で検討する内容についても独自の意味があるということになろう。

4)肯定側が出したプランについてのフィアットと異なり、現状維持の中に論題の否定を仮定するという場合、それがどのようなシステムを支持しているのかが一義的に明確でないという批判もありうる。例えば、裁判員制度の採択に伴って行われる種々の法改正の中には裁判員制度と一体でなければ無意味なものから独立に機能しうるものまで様々なものが含まれていると考えられるが、「裁判員制度を否定する現状」を仮定した否定側は、こうした法改正については全て「現状」に取り込むのか(あるいは取り込んでよいのか)が問題となる。この点について、論題に通常付随的な政策は論題の否定を仮定したときに同時に否定される…などの対応が考えられるが、ここでは詳細な検討は省略する。

5)直接伺ったものであり、正確な理解ではない可能性もあることを断っておく。筆者としては、瀬能先生がこの点について文章によりその見解を著すことを願っている。

6)このような見解からは、肯定側が「論題に規定された政策の採択された世界が望ましいという立場」を取るという場合についても、論題に規定された政策が既に採択されてしまっている場合にそのような立場を採ることはナンセンスであるということになるのだろう。

7)例えば、第12回ディベート甲子園高校の部論題は「日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を認めるべきである。是か非か」であり、ここには選挙権拡大と被選挙権拡大の2つのアクションが規定されている。なお、この場合肯定側は立場としては両方のアクションを肯定しなければならないと考えられるが、片方のアクションからのみメリットを提出しても論題を肯定しうる(いわゆるJustificationの議論は除く)。

8)ディベートの試合では、採択が決定したという場合でも、あえて仮想的に政策の是非を議論するものであるということは既に述べたとおりである。

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