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ディベートの争点

はじめに

ここでは、ディベートについて当サイトの管理人(愚留米)が考えたことについて紹介しています。ディベートの素晴らしいところは、競技内容としての議論のみならず、競技の枠組そのものに対しても思考し、疑問を提起することが許されているところです。
ここで取り上げているのは、「どのような議論を回すべきか」などの技術論ではなく、競技ディベートのあり方や議論の評価方法など、やや理屈っぽい内容になっています。現実のディベートにおいても見解が分かれうる内容も含まれている上、高度なテーマを含むので、当サイトの他の部分よりさらに信用性の低いことしか書けておりません。ですから、そういうことも考えられるのかなぁという気軽なきもちで読んでいただければ幸いです。このコンテンツの最大の目的は、ディベートについて何かを知ってもらうことではなく、皆さん自身が考えるきっかけを作るということです。
とはいえ、内容については筆者として一応責任を持っておりますので、疑問点や批判などがございましたら、お知らせいただければ幸いです。

*以下の内容については、ディベートを一通り学んだ人を読者として想定していますので、「初心者のためのディベート講座」で紹介しているレベルの知識は仮定して書かれています。『初心者のディベーターを救う団』のコンテンツですから、極力分かりやすいように(もっとも、筆者の能力的限界から相当程度不達成に終わっています)説明を増やしているものもございますが、基本的にこのコーナーは初心者向けでないということをお断りしておきます。



目次

競技ディベート総論

競技ディベートにおける真実義務
ディベートでは、無作為に割り振られた立場に立って、客観的な見地から議論を展開します。競技として勝利するためには、それぞれの立場から自分たちに有利な材料で議論を組み立てる必要があります。そこでは、都合の悪い議論を避けるということも必要になってきますし、様々にありうる見解の中から特定の(時には怪しい)ものを選び出して議論を構築することも避けられません。
しかし、このことは「ディベーターは試合中にいくらウソをついてもよい」ということを意味しません。ディベートが議論の一形式である以上、議論を成立させるために必要な配慮として誠実さが要求されるはずですし、そもそも虚偽の内容によって説得した結果を「勝ち」と評価することはできません。ここで問題となってくるのは、そもそも議論を行う者としてウソをついてはならないという義務(真実義務)がどのような形で観念できるのかということです。本稿ではそうした点を考察した上で、競技ディベートにおいてはそれがどのような行為を意味し、いかなる罰則に服するのかを論じています。

競技ディベートの目的とジャッジ・指導者の役割
「何のために競技ディベートに取り組むのか」という問題は、シンプルでありながら、答えるのが難しい問題です。
この問いに対しては、主に2つの立場が存在します。一方の論者は、ディベートは教育的なものであり、そこには楽しさだけでは測れない価値があると考えます。他方で、ディベーターは楽しいからディベートに取り組むのであり、それ以外の教条的な価値観に縛られるいわれはないと主張する立場の論者もいます。このような意見の対立は、ディベートをどのように捉えるのかという点から、議論の細かな解釈についてまで大きな影響を及ぼしています。
ここでは、こうした対立を踏まえ、ディベートの目的をどのように捉えるべきかを私なりに論じた上で、それを前提としたジャッジや指導者のあるべき姿について簡単な私見を披露することにします。本稿の目的は筆者の答えを提示することというより、ジャッジや指導者、そしてディベーターが「ディベートの目的」を再考するささやかな端緒を提供することにありますので、その点に留意してお読みいただければ幸いです。

実体的議論

論題充当性の性質に関する一試論
ディベートにおいては、肯定側に論題を肯定する義務があるとされています。ここから、肯定側のプランは論題を肯定するものでなければならず、プランが論題を肯定しない場合、それだけをもって敗戦の理由になるというのが一般的な理解です。そして、このような議論が「論題充当性」(Topicality)と呼ばれています。
しかしながら、このように論題充当性を純利益(メリット・デメリットの比較)の議論と独立に捉える必要があるかについては、疑問の余地があります。本稿では、このような疑問から論題充当性に対する一般的理解を批判的に検討し、論題充当性をメリットの解決性に対する攻撃として再構成するという私見を紹介しています。

論題肯定的現状の扱いについて
肯定側と否定側は、論題に規定された政策の是非について議論します。その前提としては、現状においてはその政策が採択されていないということがあります。しかし、現状が流動的であること、また論題となるトピックが現実に議論されるような問題であることから、現実にその政策が採択されてしまうという事態も生じうるところです。
このような状況において、肯定側と否定側はどのような立場を支持することになるのか、また内因性や固有性といった要素を判断するに当たって現状でその政策が行われるということがどのように影響するのかが問題となります。本稿は、論題に規定された政策が実際に採択されることが決まった場合(論題肯定的現状となってしまった場合)に生じるこのような問題について、一般的に議論されてきた内容と対比させつつ検討するものです。

ジャッジングについて

同意の効力
ディベートでは、相手方が争わない事実については同意がなされたものとしてそのまま採用することが原則だと考えられています。これは、「沈黙は同意を意味する」という格言で表現されることもあります。この延長には、積極的に相手の議論に同意するというスピーチも考えられます。現に、実際の試合では相手の議論を積極的に認めるという発言もなされ、それによって争点を整理することが試みられます。積極的に相手の議論を認め、それによって相手を攻撃するというテクニックも存在します。
しかし、黙示あるいは明示で同意された議論についてどのように扱うべきかという問題は、実際のところ単純ではありません。本稿では、相手の議論に同意するということの意味について、詳しく検討してみることにします。

証拠資料の扱い

証拠資料についての総論的考察
ここでは、証拠資料の使用に関して重要と思われる論点について総論的に考察しています。特定の論点についての考察というより、実際に試合で証拠資料を用い、また評価するにあたって最低限留意すべき事項について私なりに解説している内容です。証拠資料に関する別の争点についても本稿の内容を前提として議論していますので、このコーナーの証拠資料についての文章をお読みいただく前に一読していただけると幸いです。

証拠資料の不正な引用
ディベートで用いる証拠資料については、適正な引用方法が守られる必要があります。なぜなら、不正な方法で引用された証拠資料に基づいて議論を行うことは教育的にも望ましくない上、競技としての楽しさを損ねてしまいます。そして何より、議論の材料を適切に使わないということ自体が、議論者としての倫理が疑われる、問題ある行為だということができます。
ここで、不正な引用が許されないというとき、我々はいくつかの課題に直面します。それは、第一に「それでは不正な引用とはどのような行為を指すのか?」ということであり、第二に「不正な引用についてジャッジはどのように判断すべきか」ということです。
ここでは、これら2つの問題について検討を加え、不正な証拠資料についてどのように考えるべきか、議論していくことにします。

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