初心者のディベーターを救う団・公式ホームページ

競技ディベートの目的とジャッジ・指導者の役割

1.ディベートの「目的」を考える意義

私たちはなぜディベートという競技に取り組んでいるのか。この問いは一見どうでもいいことにも思えます。サッカーや野球をする際に「どうしてこんなことやってるんだ」ということを考えることにはおそらく(一部のプロ選手やそれに関わろうとする人を除いて)さほどの意味はありません。それは、そうした競技がそれ自体目的として楽しめるものであり、それ以上の意義を付与する必要がないからです。
ディベートだって同じことであり、楽しいからディベートをやっているという以上の目的を考える必要は無い。そのように言うことも可能でしょう。しかし、ディベートが社会生活の基礎となる言葉を用いて社会について語るという極めて社会連関的な営みである以上、他の競技のように社会と独立した「ゲームのルール」を無前提で受け入れることはできません。ディベートでいう「楽しさ」それ自体も、わざわざそうした議論を競技という形式で行うことがなぜ楽しいのか、という問いから逃れることはできないのです。

後述のとおり、競技ディベートの楽しさは、ディベートという競技が結果的に生じさせたものであり、ディベートの存立根拠ではありません。ディベートを真に存立させうる「真の目的」を考えることは、特にジャッジや指導者がディベートに関わる方法論を論ずる上で避けては通れませんし、選手に求められる議論の方向性をも規定します。さらにいうなら、この問題はディベートという競技の意義そのものにも関わってきます。

以下では、ディベートの真の目的を筆者なりに検討し、その延長上の問題としてジャッジや指導者のあり方について考えてみることにします。もっとも、この問題はディベーターそれぞれが検討すべき課題ですから、ここで提示される筆者の見解はあくまで「仮説」であり、その真偽は読者の皆さまの思索と実践によって試されなければならないということをご承知置きください。

2.ディベートは楽しいからやる…でいいのか?

ディベートの目的を考える上で最初に問題とされるのが、「ディベートは教育的であるべきか、楽しさを追求して行われるものか」という問題です。後で見ていくように、これは必ずしも二項対立で捉えられる問題ではないのですが、現役選手の中には「楽しいからディベートをやっているのであって、教育がどうとかいう見地から介入してほしくない」という立場の人も少なくないようです(最近の英語ディベーターには多いようです)。
私見では、こうした主張の多くは感情的理由や「教育的」という言葉の恣意性(項を改めて後述します)などからなされているだけに過ぎず、放埓に楽しめれば何でもいいという考えのディベーターはほとんどいないと思われるのですが、ディベートの教育目的と娯楽目的の関係についてはきちんと整理する必要があるでしょう。

素朴な立場として、選手にとってディベートを続ける動機は楽しさに他ならないという立場はありうるところです。実際、筆者もディベートを今日まで続けているのはそこに楽しさを感じているからであり、楽しくもないのにリサーチその他を苦行としてこなしているわけではありません(たまに辛いと感じることもありますけど、それを続けているのも試合が楽しみだからです)。この立場からすれば、教育的目的というものはおまけに過ぎないか、あるいは「ゲームを楽しくするための基準」ということになります。ゲームのための基準というのは、アンフェアなルールは非教育的であると同時に競技性を損なうものであり、非教育的なゲームは面白くないという意味です。

このような娯楽目的中心的な考え方は、選手が自分たちだけでディベートを楽しむのであれば、それはそれで成り立ちうるかもしれません。しかし、そうした理解はディベートの意義を効果的に正当化できません。楽しいだけで意味があるというのは、競技者以外には理解しがたいことですし、少なくとも現在学校でディベートが取り入れられている理由を説明できません。
さらに大きな問題として、こうした理解はジャッジを行う動機を生みません。選手はゲームに没頭して楽しいかもしれませんが、それではジャッジはどうなのか。僕個人としては、試合を見るのは楽しいですが、ジャッジしたいかというと、正直そうでもありません(選手に言いたいことがあるとしても、ジャッジとして講評で言わねばならないものではない)。誰かがジャッジをしないとディベートが楽しめないから我慢してジャッジを引き受ける、という理由はありうるのですが、それでは現役選手以外ジャッジをする人はいなくなってしまいます。ボランティアだって、それをやることに何らかの意義があるからやっているわけです。

娯楽目的中心的な考え方のもう一つの限界点は、教育性を離れてディベート独自の楽しさを観念することは無理ではないか、というところにあります。
ディベートを楽しいと思うのは、議論を通じて相手の考えを読んだり、ジャッジを説得することに意義を見出すからでしょう。予測不可能なルールに従って(例えばくじ引き)勝敗が決まっても面白くありません。議論という土俵で公正に戦うことができることが、ディベートの楽しさを支えているのです。それではディベートの土俵となる議論とはいかなるものと考えてみると、ここに「ディベート独自の世界」なるものを観念することはできません。もちろん、競技的制約としてのルールは存在しますが、ディベートの核心であるスピーチ内容の優劣を規定する「議論に対する認識」は、社会的一般的認識と同じものを観念せざるを得ません。それはまさしく「教育的」な目的の目指すところと一致します。

ディベートの楽しさを実社会とは別のところに置き、言葉を使ったゲームとして捉えるということも可能ではあるかもしれません。そこでは、試合で認められる議論と、社会的に意味があるとみなされる議論には乖離が生じることを正面から認めることになります。しかし、それはもはや「ディベートの大原則」である合理性(これ自体も、社会的評価にとって不可欠な要素です)を放棄したものであり、ディベートと呼ぶことはできません。
例えば、文法的議論から、全ての論題に当てはまるようなこじつけの論題充当性が回されていたことが問題となったりするのですが、そのような議論は社会的に無意味であるばかりでなく、論題を定めて議論を行うというディベートの枠組そのものからしても不合理――いかなる論題を定めても論題を充当する議論が存在しないとすれば、ディベートは成立しない――なのですから、そのような議論がディベートの枠組の中で高く評価されることはそもそもおかしいわけです1)

そうすると、競技ディベートにおいて「楽しさ」だけを目的として考えることは難しいということになりそうです。そこでは、ディベートという営みを成立させ、正当化するための別の原理が存在します。それを「教育性」という広義の言葉で表すことが適切であるかどうかは後の節で検討しますが、楽しいだけじゃディベートは成立しない、ということは心に留めておくべきでしょう。

しかし、こういうことは「ディベートを楽しんではならない」ということを意味しません。むしろ、ディベートの楽しさというのは、教育的目的を達成するために極めて重要な要素であるというべきです。勉強はつまらないとよく言いますが、それは強制されてやらされているわけですから当然のことです。効率的に学習効果を挙げるには、自発的に楽しく取り組めることが必要なのです。そこで、議論を効率的に学べるよう、競技形式で議論に取り組む形式としてディベートが作られたと考えられるわけです。
つまり、競技的要素は楽しさを通じて教育的効果を最大化するために設定されているのです。だから「教育的目的のためなんかに膨大な時間をかけるはずはない」という主張については、まさにこのように答えられます。「だからこそ、楽しい競技形式にして膨大な時間をかけさせる工夫をしているのです」と。私たちはディベートを徹底的に楽しむべきであり、その中で意識せずとも自然に議論能力がつくのです。
もっとも、ジャッジや指導者が楽しさの後ろにある「真の目的」から目を逸らすことは許されないわけですが。

3.ディベートは何を教育するのか?

ここで、ディベートにおける「教育性」とは何であるか、考えてみます。その前提として、ディベートにおける教育目的を考えるに当たって意識的に区別して考えるべき要素を挙げておきます。
第一に、ディベートで「結果的に」身につく要素と、ディベート教育として目指すべき要素の区別です。これを区別することは、教育効率の側面から重要です。ディベートではリサーチを行うことで調査能力が向上するということができますが、そうであれば「議論を戦わせる」という要素は不要であり、時間制限を設けたカルトクイズ大会などの方が有効にリサーチリテラシーを向上させられるかもしれません。ディベートの教育目的はそのような付随的なものではなく、その競技の特性から導かれる固有のものであるというべきでしょう。
第二に、ディベートで身につく諸要素のうち、表層的なものと本質的なものの区別です。ディベートでは根拠の不備を指摘する能力、効率的にスピーチする能力、効果的な立論の構成方法など様々な「ディベート実践的」テクニックが身につきます。しかし、それらの中には、そのままでは競技ディベートの中でしか効果的に機能しないものも含まれます。ディベートが教育的であるというためには、それがディベート外の場所において役立つものであるというべきであり、ディベートの教育目的はそのような要求に資するような実践性を持たなければなりません。
第三に、上で説明した「(ディベート外での)実践性」について、テクニックの要素と理念の要素を区別する必要があるでしょう。テクニックの要素とは、習得したノウハウが直接または応用的に役立つということであり、理念の要素とは、一連の活動を通じて会得された思考形式・価値観がその人のあり方を望ましい方向に変化させるということを指します。これは前二者のようにいずれかが不適切であるというものではなく、両方ともがディベートの教育目的たりうるでしょう。しかし、いかなるテクニックにもそれを必要とする事情があるわけで、その意味ではテクニックを導き出した理念に注目することが有益な考察となりうるように思われます。

よくある見解として、競技ディベートがスピーチ能力の向上を目的としているという考え方があります。いわゆる「分かりやすさ」の基準です。もちろん「分かりやすさ」は望ましい要素ですが、これをディベートの教育原理に据えることは、第一の区別基準から問題があります。
ディベートでは、あくまで議論の中身で優れていたほうが勝利するというルールを採用しています。ここで、議論の分かりやすさというものは議論の評価と強く関連するものではありますが、全く同じではなく、場合によっては矛盾をきたす場合があります。説得的な論証のために必要な議論を制限時間内に行うとするとき、ある程度分かりやすさを犠牲にした上で高速スピーチを行わねばならない場合があるからです2)。ここで「分かりにくいと思われる議論は評価しない」という立場を取ることは、議論の中身で勝負するというディベートのあり方に反します。もし分かりやすいスピーチのあり方を教育したい場合、それは(少なくとも今のような)競技ディベートの形式をとるべきではないでしょう3)

すると、ディベートの教育目的はあくまで「議論の中身」から導かれるということになります。ここでよく挙げられるのが、論理的思考力であるとか、批判的思考力であるとか、そういった要素です。確かに、こうした要素はディベートを行うことで大きく成長します。
しかし、ここでも第一の区別要求から、若干の疑問があります。確かに、ディベートでは論理的思考力や批判的思考力が要求されますが、それは対戦や競技という形式をとらなくても、論文を書いて批評しあったりすれば身につきそうなものです(それではつまらないからディベートをやるんだ、とも言えそうですが)。わざわざ難解なテーマを論題として取り上げ、政策的アプローチから議論を行うという現在のディベート活動を意義付ける要素としては、もっと別の要素が必要だと思われます。

それでは、ディベートはどんな能力を教育しようとしているのか。筆者は、適切な意思決定を行う能力の養成が目的であると考えます。意思決定能力といってもそこには様々な要素が含まれうるのであり、論理的思考力や批判的思考力もこれに含まれるでしょう。しかし、ディベートではそうした諸能力を「論題についていかなる解答を下すべきか」という問題の解決のために用い、さらにそれを限られた時間・材料の中で行わせます。これは意思決定のための総合トレーニングとして評価することができます。
議論教育としてのディベートという通説的見解からすると、こうした理解は少し外れているのかもしれません。しかし、ディベートをより社会実践的な営みとしていくためには、単なる思考力養成ではなく、それを現実に適応させる力を育てるものとして理解していくことが望ましいように思われます。

最後に、意思決定能力を養うという教育目的の中にある理念的要素について検討することにします。
意思決定のために必要なことは、多様なあり方のどれにも配慮しうるという意味での「客観性」と、その基準に照らして正しい分析・議論を展開する「合理性」です。この2つの尊重こそが、意思決定トレーニングとしての競技ディベートから導かれる理念的要素であると筆者は考えます。

これに対して、競技ディベートで養われるべき理念的要素(基本的考え方)は「理性に支配された、目的に対して合理的な行動を取る態度」であるとし、ディベートでは試合の勝敗が絶対的な基準であるから、それと接続せずに直に別の教育目的(価値観)を持ち出すのはよくない、という見解があります4)。確かに、ディベートがある種の目的合理主義を推奨しており、それに従ってディベートに取り組むことで諸能力を効率的に養成するとともに恣意的な評価を排除できるということはいえるでしょう。
しかし、この目的合理主義的見解を採ったとしても、ディベートの中でどのような振舞いが目的合理的となるかを規定するジャッジの判断基準を定めなければならないという問題は残ります。論者はあくまで「理性を優先する」べきであるとします5)が、それはジャッジの判断原理としては真っ当でありうるものの、それだけでは教育原理としては不十分に思われます。「望ましくない議論では勝てないことを悟らせる」という方法だけでは、意思決定としての望ましさが十分に意識されることなく、単に「試合に勝つため」という原理で議論が構築されていくことになります。それも目的合理性が身につくのだからよいことである、というのでしょうが、そうした目的合理性がディベートでなければ得られないのかということは疑問ですし、特定の教育原理に基づいた理性的判断であっても、それに適応させる形での目的合理的思考は働くはずです。目的合理性はそれが目指すものと独立して成果を発揮するものではなく、結局のところそれが仕える目的が本質なのですから、目的そのものの性質と乖離した目的合理性はむしろ有害なものとなってしまいます。

少なくとも現在の競技ディベートが極めて論争的な政策論題を扱っている以上、その目的は社会における議論のあり方(望ましさの追求)と切り離して考えることは不自然であるように思われます。もちろん、そこで採用される「望ましい議論」は特定の内容を志向するものであってはならず、我々は恣意的な目的設定を不断に排除していく必要があるということはいうまでもありません6)

4.ジャッジに求められる役割と権限

以上から、ジャッジに求められる役割と権限について考えられるものを簡単に挙げておきます。
まず、ディベートのジャッジは一種の教育者として振る舞わなければならないといえます。これは、ディベーターはジャッジに評価されるような議論を目指すため、ジャッジの判断は議論の内容を大きく左右するからです7)。ただし、ここで「教育」されるべきものは、議論の中身そのものや知識ではなく、議論に対する姿勢――筆者の言葉で言えば客観性と合理性――です。こうした教育は、教育者以前に公平な判定者として振る舞わなければ実現不可能なものであるということを忘れてはなりません。

この目的から、ジャッジは「教育者として模範となるような言動」をなさなければなりません。ジャッジの判定内容が客観性や合理性を欠くことは許されません。これは最低限の要求であると同時に、ジャッジとして必要な全ての要求であるといえます。ジャッジという観点を越えて教育的であること――論題について示唆的なコメントする――を除けば、優れたジャッジに必要なのは、提出された議論をきちんと判断し、きちんとした論理構成で判定を導き出すことに尽きるでしょう。

この役割をこなすためにジャッジに与えられるべき権限としては、試合を規律する権限、不正の疑いがある議論(証拠資料)を調査する権限、自らの合理的判断枠組によって議論を判定する権限の3つを考えることができます。
試合を規律する権限とは、暴言やマナーに反する行為など、議論を妨げる行為を中止させ、場合によっては反則処分とする権限のことです。議論のあり方として望ましくない行為がなされている場合には、教育者としてそれをただちに除去することが求められているからです。
不正の疑いがある議論を調査する権限は、判定者として公正な判断を行うという目的のほか、議論における不正行為を戒めるという教育的要請から認められるべきものです。
自らの合理的判断枠組によって議論を判定する権限は、ジャッジが判断に際して自分の基準を適用する権限と言い換えてもよいでしょう。すなわち、個々の議論についてどのように判断し、どう判定に反映させるかは、それが合理的であるといえる限り、ジャッジの自由であるということです。よく、ディベートでは試合中の議論のみで全てを決するとか、両チームが合意した議論はそのまま認める8)といったことが言われますが、議論の判断枠組については、試合の議論とは独立に用意されなければ判定が不可能です。もちろんディベーターは議論によって判定枠組の変更を促すことが許されますが、ジャッジはそうした主張と自らの判定枠組が備える合理性を比較した上で、枠組変更に十分な理由がないと考える場合は、判定者及び教育者としての自分の仕事をより適正に全うするために自らの判定枠組を優先させることができるというべきでしょう9)

5.指導者に求められる役割

指導者についても、ディベートの教育的目的を正しく理解した上で、それに奉仕する形での指導を行う必要があります。ディベートは意思決定能力の養成であると考えるのであれば、選手に議論を教え込んでそのまま回させるような行為は、それを阻害するものとして厳に慎まねばなりません10)

ですから、指導者として求められる行為は、ディベートのルールや議論の構成パターンなど、考えるための枠組を提示することです。意思決定を促すための材料提供(読むべき資料の紹介や議論のきっかけとなる基礎知識の紹介)や改善すべきポイントの指摘なども、この延長上として推奨されます。しかし、議論内容の強制にわたる全ての行為は、上で見てきた内容からすれば反教育的であり、慎まれるべきです。
指導者は指導対象のために存在しているのであって、自分の感情を満足させるために存在するのではありません。そのような当たり前のことを踏まえ、指導対象がディベートを通じて成長するためには何をすればよいのか…と考え続けることが、指導者の使命です。筆者は経験不足その他の理由から、指導者として十分な素養を身につけているわけではないのですが、唯一つ確信を持って言えることがあるとすれば、指導者の仕事は選手に楽をさせることだけではなく、選手を「悩ませる」こともその重要な役割である、ということです。


2007年4月7日 愚留米



脚注

1)このようなことを考えると、教育的という言葉を使うにせよ使わないにせよ、およそ社会的に評価されうる議論を志向しない議論形式は、ディベートとは呼べないことになります。「文法ゲーム」や「定義づけゲーム」、「プル&ドロップゲーム」などの言葉が当てはまるでしょうか。少なくとも僕はそのような大会に出場する気は起きないし、ジャッジに行く気にもなりません。

2)もっとも、スピーチ速度が速いことが常に分かりやすさを下げるわけではありません。スピーチの分かりやすさは議論の構成や読み方、間の取り方など様々な要素に規定されるからです。この点、スピーチの字数制限を行うべきであるという見解もありますが、それがディベートという競技の教育目的理解を誤っているという本文の指摘とは独立に、コミュニケーション問題の理解を過度に単純化しているという批判を行うことが可能です。

3)そもそも、ディベートに精通した人間をジャッジとして選任している時点で、パブリックな分かりやすさを目的とした競技にはなりえないというべきです。パブリックな分かりやすさを養うためにディベートを行いたい場合は、聴衆に投票させるなどの方式を取るしかないでしょう。
もっとも、競技ディベートが常に分かりやすさより議論の内容を重視すべきということはできないでしょう。例えば一般の観客がやってくる決勝戦などの場合、そうした方々に配慮した形でのスピーチが求められ、あるいは選手が意識するということは十分ありうることであり、またそれは望ましい試みだといえます。しかしながら、そのような場であっても試合の勝敗は議論内容の優劣で決せられるのであり、この点で競技ディベートは究極的に「分かりやすさ」を最終目標としえないというべきなのです。

4)佐藤弘志「アカデミックディベートにおける教育目標―「勝利至上主義のススメ」―」ディベートフォーラム9巻4号(1994年)より。この論文では「勝利至上主義を採るべき」という過激そうな主題を挙げていますが、実際には「望ましくない議論だと思ったら、論理の面で勝てないから望ましくないのだと諭すべきである」という極めて真っ当なことを述べています。その他参考になる記述も多く、機会があれば一読をお薦めします。この論文のほかにも、過去のディベートフォーラムには本稿のテーマに関連して有用そうな論文がいくつもあるのですが、絶版などの事情で入手できないことが残念でなりません。

5)前掲論文238p

6)この点で、ディベートという形式を通じて特定の思想を教えこもうとする全ての試みは排除されなければなりません。これは思想の内容如何にかかわらず適用されるべき規範であって、ディベートにおける望ましさは「議論という営みを健全にするかどうか」というあり方の次元においてのみ判断されるべきです。もっとも、「差別的言論がディベートにおいて許されるか」といった問題については、それが差別的言論についての「思想」の問題でもあることから、極限的事例として一層の検討を要するでしょう。

7)矢野善郎「<良いジャッジ>を求めて」ディベートフォーラム9巻3号189p参照。

8)もっとも、この点について筆者は「両チームが認めていても、明らかに理由不十分で一般的理解に反する議論は認めるべきではない」と考えているのですが、本稿の内容とは関わりがないので理由は省略します。

9)もちろん、十分な理由がある場合は判定枠組を変更すべきですし、ここで権限を有するとされる「判定枠組」がどこまでを指すのか…という点については、別途の議論が必要です。ここではそのような検討は省略します。

10)残念ながらそのようなチームも散見されるところです。こうした行為は反教育的であるのみならずディベートの楽しさを削ぐものであり、誠に遺憾です。このような行為を「指導」とか「教育」といった名目で行う欺瞞的行為は唾棄すべきものであり、一刻も早くなくなることを願っています。

Contents of This site


ディベートの争点・目次


Copyright© 2007
SDS団&愚留米 All Rights Reserved.
Powered by sozai.wdcro
inserted by FC2 system