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論題充当性の性質に関する一試論

問題の所在

論題充当性(Topicality)とは、肯定側が論題を肯定する立場に立っているかを問題とする議論のことである。具体的には、肯定側が提出したプランが論題を肯定するものであるかを検討することにより、肯定側に反対する投票理由とする議論を指す。
通説的見解は、論題充当性についての証明を肯定側の必要的証明事項と考え、論題充当性の論点は絶対かつ独立の投票理由であると考える。その一方で、論題充当性の論点については肯定側に推定を置き、否定側から指摘がなされない場合は論題充当性の証明があったものとして考える立場が多数を占めている。

以上の議論が依って立つ論拠については、一応筋が通ったものであると考えることができる。しかしながら、通説的見解のごとく論題充当性の理解を特殊なものとして捉える必要があるのかを考えたとき、そこには大いに疑問の余地がある。本稿では、このような問題意識から通説的見解に対する疑問を提起した上で、論題充当性をディベート理論上においてより適切に位置づけることを試みたい。

(1) Is topicality an independent and absolute voting issue ?

論題充当性が他の議論と独立した絶対的投票理由であるという論拠としては、以下の三点が挙げられる1)

第一に、肯定側は論題を肯定する立場に立たなければならない。よって、肯定側の主張する政策が論題を支持しない場合、それは肯定側と呼びえないものであり、そのような立場に投票することは不可能である。
第二に、論題には話題(Topic)を提供する役割があり、これを無視することは許されない。
第三に、肯定側に論題を無視することを許すことは、ディベートの本質的な教育価値を失わせる。否定側が論題の領域をリサーチして試合に臨んでいるのに、それを無視した議論が展開されるとなれば、議論の衝突が減少し、教育的に望ましくない。

しかしながら、以上の諸点については、論題充当性を欠く場合に肯定側が負けうる理由を示しているものの、それが通常の議論(いわゆる純利益の議論)と独立して(Independent)採用されるべき理由を示していない。

第一の理由に関しては、肯定側が論題を肯定する立場に立たなければならないというのはもっともであるが、そのことと試合において論題が肯定されたか否かの判断とは別物であるということを指摘することができる。政策形成パラダイムにおいては、両サイドから出された政策システムが最終的に比較され、最終的に最上とされた政策が論題により規定されるものか、その規定外にあるかによって勝敗が決すると考えられている。とすれば、肯定側の立つ立場と論題が肯定ないし否定されるべきかの判断は異なるのであり、肯定側が論題を肯定しないことによって投票を不可能ならしめるということにはならない。通説的見解の論者は肯定側に論題を肯定すべきという規範的義務を観念するのであろうが、上で述べたとおり、論題の是非を問うという根本的目標からそのような規範的義務を導き出すことはできない。
また、このような規範的義務は、当然ながら否定側にも課せられるべきである。とすれば、否定側は論題を否定する義務を負うこととなる。この場合、肯定側が論題を肯定しないプランを提出し、否定側が論題を肯定するカウンタープランを提出した場合、いずれに投票するべきかが問題となるが、規範的義務によってTopicalityを論じる場合、このような事態に対して適切な回答を与えることは困難である2)

第二の理由に関しては、論題の話題提供性を重視することが論題を無視することに対して純利益の議論と独立した投票理由を作る理由を何ら示していないといえる。すなわち、論題と関係ない議論が提出されている場合、それを判断基底から除外すればよいだけの話であって、論題充当性の不在をもって独立の投票理由とする理由付けとはいえない。これは、後述する論題外性(extra-topicality)の議論との対比においても明らかである。
第三の理由に関しても、上と同様の指摘があてはまる。純利益の議論において論題外の論拠を排除すれば、論題を無視した肯定側に対しては十分なペナルティを課すことができる。

また、論題充当性の論点が絶対的(absolute)投票理由になるという主張についても、疑問を提起できる。すなわち、否定側がいわゆるTopical-counterplanを出した場合など、肯定側がTopicalな立場を取らない場合においても、結果としてTopicalな政策が望ましいと示させることは十分ありうる。この場合において、政策次元での論題に対する評価を違えてまで、肯定側の規範的義務を優先して否定側に投票するという理由は、十分に示されていない(上述の第一の理由に対する指摘を参照のこと)。

(2) Topicality as solvency attack

それでは、論題充当性の議論はどのような理由によって否定側の投票理由になりうると考えればよいか。
私は、論題充当性を解決性への攻撃として位置づけるべきであると考える。すなわち、肯定側のプランがnon-topicalであるとき、そのようなプランから主張される解決性は「論題による解決性」とは呼びえず、そのような解決性は論題を肯定する理由としてのメリットをサポートしないと考えるのである。これは、論題充当性の議論を純利益を争う一手段として考えるものである。

論題充当性の議論をこのように構成する理由は、以下の三点である。

第一に、この構成は政策形成パラダイムの目標に忠実である。政策形成パラダイムにおいてジャッジが関心を抱くのは、望ましい政策形成において論題の採択が必要であるか否かという点である。この観点からは、論題は提出された政策を識別する標識としての意味しか持たず、当該政策を誰が提出したかという点を問題とする必要はない。ともかく、提出された政策システム(これはPermutationも含めて複数あり得る)の中から最も望ましいものを取り出した上で、そこに論題が含まれるのであれば論題を肯定すべきと考え、そうでなければ論題を否定するのである。
実際の政策形成過程においても、「誰が主張したか」ではなく「どのような政策であるか」が最終的な関心であるのだから、肯定側の規範的意味を考慮する必要はないどころか、望ましい政策の支持を妨害するという意味で望ましくないことであるというべきである。

第二に、この構成は実践における論題充当性と論題外性の関係を一元的に説明できる点で理論的に優れているといえる。論題外性は、non-topicalなプランによって解決される問題はメリットとして考慮すべきでないという議論であり、これは実質的に上述したような解決性への攻撃に当たる議論である。とすれば、プラン全体が論題を充当しないという論題充当性の議論は、メリットの解決性を全部否定する「完全論題外性」とも呼ぶべきものであって、わざわざ独立の類型を用いる必要はない。
論題充当性と論題外性を一元的に捉えることは、ディベーターの理解を容易にするとともに、メリットが論題から生じるものである必要があるという前提をより明確に示すことができる。論題充当性を独立な投票理由として捉える場合、論題とプランの関係が純利益の評価において果たす役割を分かりにくくすることにつながるのである。

第三に、この構成は論題充当性の議論が「特殊な議論」として誤解される余地を減じることが出来る。これは通説的見解そのものの問題ではないが、一部のディベーターにおいては、論題充当性の議論を殊更特殊なものであると考え、現実的でない議論を主張する場合がある。また、後述するように、その評価方法においても純利益の基準とは異なるものが採用される場合があるという。しかし、実際には論題充当性の議論は純利益との関係で捉えられるべき部分が多いのであるから、その位置づけも純利益との関係で考えることによって、誤って付与された論題充当性の「魔力」を払拭することができるだろう。

以上のような理由から、論題充当性は解決性への攻撃方法として、純利益を論じる手段に位置づけられるべきであると考えるものである。

もっとも、このような立場を取ったとしても、論題充当性の議論による勝敗の帰結が通説的見解と異なる場合は例外的である。すなわち、肯定側のプランがnon-topicalであり、通説によれば論題充当性による敗北を言い渡されるべき状況にあるならば、肯定側のメリットは全体として解決性を欠くものとして評価され、結論として否定側に投票することになるのである。結論が異なるとすれば、否定側がTopicalなシステムを(意図するにせよしないにせよ)提示し、そのシステムが最も望ましいと考えられる場合や、Topicalな立場に立つ議論が提出されないにせよ、議論の全趣旨を考慮した結果論題の採用が望ましいという心証を得た場合など、極めて例外的な状況である3)

 

(3) 論題充当性の立証責任と推定について

ここで、論題充当性の立証責任について話題を転じる。
通説的見解は、論題充当性の判断は否定側からの指摘がなされて始めて可能となると解し、ジャッジの心証のみによって論題充当性による投票を行うことはできないとする。その理由は、以下の四点にあると考えられる。

第一に、否定側から論題充当性の議論が提出されない場合において、ジャッジが一見明白性の基準によって肯定側のプランをnon-topicalと判断して否定側に投票することは、ジャッジの介入として許されない。
第二に、否定側が主張しない論点に投票する権利はジャッジにない(処分権主義違反)。
第三に、いわゆる描写主義(Descriptivism)の観点から、肯定側のプランが論題を充当しているかという優れて実在的評価の問題についてジャッジが介入することは許されず、論題充当性の判断は当事者の主張による論題の解釈に委ねるべきである。
第四に、これは通説的見解たる肯定側の規範的義務を観念する立場からの主張であるが、肯定側は規範的義務として論題充当性の立証責任を負っている以上、そのバランスを取るために論題充当性については肯定側に一応の推定がおかれ、指摘がない以上は論題充当性は満たされていると解すべきである。

以上の理由についても、それぞれ疑問を提起することができる。特に、私の主張するように、解決性攻撃手段として論題充当性を理解する立場から、これらの理由を批判することにしたい。

第一の理由については、論題充当性以外の議論について一見明白性の基準を適用する余地を認める一方で、論題充当性においてのみそれを否定して「ジャッジの介入」というのか、全く理由が示されていない。この論者は上で挙げた第四の理由を実質的理由として採用しているのであろうが、例えばメリットの解決性について一見明白に示されていないとして評価しない場合も、結論として肯定側が勝つことはないのであるから、肯定側に対する不意打ちの可能性やダメージにおいて相違はない。
それにもかかわらずこの理由を維持したいのであれば、純粋タブラ・ラサの立場を取って論題充当性のみならず全ての論点について一見明白性を否定する以外ないであろうが、そのような立場を取る論者はほとんど存在しないだろう。従って、この理由は理論上の一貫性を欠き、およそ説得的であるとはいえない。
また、私の主張する構成によれば、論題充当性は純利益領域である解決性の議論に係る問題であるから、一見明白性の基準ないしクリティック・オブ・アーギュメントの観点からこれを評価することには何の不都合もない。

第二の理由については、私の立場からすれば、論題充当性によって投票するということは、肯定側の定立した理由であるメリットを棄却するということに他ならないのであり、否定側の主張とは関係なく判断をなしうるため、当たらない。
また、論題充当性を規範的義務の問題として捉える見解からも、処分権主義の例外として論題充当性を考えることは可能である。論題充当性を通説のように捉える場合、その義務を果たさない肯定側はそもそも投票される資格を欠くのであり、論題の是非に関する議論と離れて独立に評価されて然るべきである。とすれば、この範囲については特にジャッジの職権により自由に判断する余地があると構成することができよう。

第三の理由については、描写主義そのものに対する疑問を提起することができる。ディベートの意義を純粋議論教育の範囲にとどめるというあり方はそれ自体是認できるものではあるが、現代ディベートに求められる要素に鑑みれば、ディベートにおける議論は社会的評価と独立したものではありえない。肯定側が明らかに社会的に無意味な論題解釈を行っていると評価できる場合、そのような議論に対して否定的評価を下すことはむしろ積極的に行われるべきであるともいえる。
また、描写主義の立場を取ったとしても、それが直ちに論題充当性について特別扱いする理由になるとはいえない。論題の解釈が他の論点に比べて実在的問題であるかどうかは疑わしい。

第四の理由については、私の理解とは全く関係ない次元の問題であるが、通説的見解によってもこのような理由のみをもって論題充当性を特別視する理由にはならないだろう。明らかにnon-topicalなCaseを放置することが教育的見地から望ましくないということは、論題充当性に規範的義務を観念する論者自らが認めることであって、そのような場合に否定側の指摘を待たなければならないと考えることは背理であるのではなかろうか。

以上の通り、論題充当性について、否定側の指摘がなければ投票理由として考慮できないという見解には理由がないというべきである。そもそも、否定側から指摘がなければ一見明白な問題を取り上げることができないが、指摘さえされれば取り上げることが可能である…などという立場は極めて不自然であり、このような立場をわざわざ取る必要はないだろう。

では、論題充当性の推定についてはどのように考えるか。
この点、私のように論題充当性においても通常の議論と同列に考える立場を取る場合も、論題充当性の点については肯定側に一応の推定を置くことが妥当であると考える。なぜなら、肯定側には論題の解釈について解釈権があり、それに対しては一定の配慮が必要であるからである。また、否定側がかかる解釈に同意している場合は、その点についても配慮する必要があろう。
従って、否定側が特に論題充当性の点を争わない場合は、肯定側の論題充当性については原則充当と解し、一見明白にnon-topicalと考えられる場合にのみ投票理由として取り上げることが望ましいといえる。

 

(4) 結語

以上、論題充当性の性質とその帰結の一つとしての立証責任論について論じた。
私の取る立場は、論題充当性を特殊な議論類型と考えず、純利益議論の一種として布置するものである。このような理解は、上で述べたような理論的優位点とともに、いわゆるネットVSセオリーなる誤った二項対立を打破するという期待を込めたものである。論題充当性を問題にするということは、あくまで「論題の是非」を議論するための一方法であるはずである。少なくともディベートの試合においては、論題の是非が争点となるのであって、いわゆるディベート理論の論争はそのための道具でなければならない。ここで論じた内容がそのための一つの方法として理解されることを願って、議論を終えることにする。


2007年4月7日 愚留米

 

脚注

1)伊豆田=蟹池=北野=並木『現代ディベート通論[復刻版]』[蟹池](ディベート・フォーラム出版会、2005)56-57頁より。

2)両方とも義務を果たしていない以上、推定によって否定側に投票すると判断するのであろうが、かかる結論は形式的かつ不毛なものであると思われる(そもそも両サイドが義務を果たさないのだから不毛になって然るべきとも言えるが)。これに対して、後述する私の見解によれば、論題の是非という形で評価を下すことができ、より論題を尊重した形の判定を下すことができる。

3)Topicalityを解決性への攻撃と捉える場合、それが機能するための要件として「その解決性は『non-topicaiなプラン』から発生するものである」ことが求められることに注意する必要がある。すなわち、全てのプランがnon-topicalだとしても、Caseで論じられた内容(特に解決性)が、論題の文言そのものについても当てはまると評価できる場合、Topicalityの成立によってもCaseは残り、論題を肯定する政策システムが提示されないとしても議論の全趣旨から肯定側に投票すべきこととなる。しかし、肯定側がわざわざプランを特定して提出している以上、「論題の文言そのまま」という政策を肯定側のオプションとして考慮する必要はないと考えれば、主張されない立場に対して投票することはできないことから否定側の勝利と考えるとの立場もあり得る。この点についてはいずれとも決しがたいが、non-topicalなプランを出した肯定側への制裁という面を考えると、個人的には「主張されない立場を判定の際に参照しない」という後者の見解に魅力を感ずる。この場合、否定側がTopicalなカウンタープランを提示した場合にのみ、non-topicalな肯定側が勝利する可能性が生じることとなる。

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